[コメント] コララインとボタンの魔女(2009/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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別に、「飛び出すビックリ映像」を全否定するつもりはない。これも3Dならではの楽しみのひとつではある。だが、上映前の予告篇で見せられた『アリス・イン・ワンダーランド』は、ブツ切りにされて編集された予告篇に文句をつけるのは不公正かもしれないが、ティーポットがこちらに飛んで来るとか、チェシャ猫の顔がすぐ目の前に浮かんでいるとか、視覚的なビックリ効果に耽ってばかりいる印象があって、呆れる。
だが、例えば本作でも、縫い物のシーンで、布から突き出た針が「観客の目の前に飛び出して」くるカットがあるが、この、観客の目に突き刺さるような画があったからこそ、後のシーンでコララインが「別のお母さん」から、ボタンの目に取り替えなさいと言われる台詞が、観客の心にも突き刺さるわけだ。つまり、映画としての「演出」になっている。
オープニングから既に、3Dならではの質感が、良い味を醸し出してくれている。人形の、布の手触り。詰め込まれた綿のモコモコした感触。ピンと引っ張られた縫い糸の感触。細い金属製の手の、冷たい硬質さ。この手がボタンの魔女のものであることは終盤になって明らかになるのだが、魔女から切り離された手が単独でコララインを襲うシークェンスも、3Dであることで、そのカチャカチャと蠢く手の実在感が際立っている。
立体感を活かした空間演出としては、コララインが黒猫やワイボーンと出会う岩場の湾曲や、崖による高低差に、ヘンリー・セリックの空間的センスを見てとることができる。家の階段をコララインが使うシーンや、アパートの上の階に住むボビンスキーさんがその軽業で建物の上下を行き来するアクションにも、3Dの視覚的な楽しさを活かした、縦構造の空間演出が為されている。
何より、コララインが小さな隠し扉を開けてトンネルをくぐるシーンが白眉。トンネルの真ん中にカメラを据えた構図によって、僕らもコララインと同じ空間に入り込んだ形になる。この、「登場人物と空間を共有する」という感覚、これは3Dの素晴らしい特性のうちのひとつだ。
これまでに無かったような、物の立体感が得られる3D。本作は、小さなアイテムが物語のキーとなる場面が多いので、その点でも3Dによく合う。隠し扉の鍵。コララインの新しい目として提示される二つのボタンと、糸巻き。かつて魔女にさらわれた三人の子らの目玉。階下に住む老女優らに渡された、お守りの石。パパとママが閉じ込められたスノードーム。家の庭に咲いた花々も、その一本一本の存在感が、それこそ手に取れるように感じられるので、その花々が、刈られたり、踏まれたりするアクションのひとつひとつも、より印象的なものとなる。
それにしても、ボタンという可愛らしいアイテムを、可愛らしさのままに、「無表情」の象徴としても機能させる手腕が巧みだ。それはまた、決して愛らしいだけではなく、小生意気でさえあるコララインの強気な目や、パパの落ち窪んだような目、ママのキツイ目など、目の演技が丁寧に為されていた成果だろう。クマのできた、半開きの、生気のない目でさえ、ボタンの目と比べたら、生きた目であるということ。
また、可愛らしいトビネズミの正体が、不気味な縫いぐるみのネズミであることや、薄汚い感じの黒いノラ猫が、実はイイ奴であることなど、見かけの印象が後半で覆るというテーマに沿った演出が並行して為されていたことも特筆しておきたいところ。本当のパパとママは特に性格が変わるわけでもないのだが、それでもコララインがそちらを選ぶ結末は、上に述べたボタンの演出効果の他に、トビネズミを黒猫がかみ殺す行為が、最初はコララインを驚かせていたが、二度目は彼女を助ける行為としてコララインを喜ばせる、といった反転などによっても補強されているのだ。
あの黒猫が重要なのは、隠し扉をくぐった向こうの世界でも、彼だけはコラライン同様にキャラが変わらず、ただ喋れるようになるだけである点にある。世界の移動と関わりなく一貫したキャラであることで、真実を語る者としての彼の超然とした立ち位置にも説得力が出る。パパやママやワイボーンのように、別物と入れ替わってしまっては、魔女の世界の一部である存在が喋ることになり、やや説得力に欠ける。だからこそ、黒猫がコララインと一緒にトンネルをくぐりつつ、途中で喋りはじめるというシーンが必要だったのだ。またこの黒猫が、いかにも薄汚そうに造られている造形力にも感心する。
空間演出の面では、終盤の、魔女の作った世界が崩壊するシークェンスに驚かされる。全篇を通して、キャラも風景も小道具も実に精密に作られているだけに、コララインの周囲の世界が真っ白になるシーンや、風景がデジタル的にブロック化されたかたちで消去される様は、視覚的に、ひとつの世界の崩壊という状況を強く印象づける。終盤、白背景に線描されたクモの巣の中で、コララインが魔女と格闘するシーンでは、視覚的に切り詰められたシンプルさと立体感の合わさった画が何とも不思議で幻覚的。異空間での、縦構造のアクション・シーンとしては、個人的に、『エイリアン2』のラスト・バトル以来のインパクトだった。
コララインの吹き替えを担当していた榮倉奈々の声は、強気でやや攻撃的なコララインを、その性格のままチャーミングに感じさせる声で、好感触。
◆3Dについての余談
この作品、3D上映としてはXpanD方式でも上映されているけれど、そちらはメガネの評判がよろしくない。ネット上では、ちょっとした拷問具のような悪評なので、避けることにした。
今回、奥行きと立体感では、IMAX・3Dで観た『アバター』には多少及ばないように思えたのだが、厳密に優劣を言うのはちょっと難しい。ただ『アバター』は、その3Dのリアルさゆえに、違和感を覚えた点が二点あった。ひとつは、人物の全身像が映った際に、小人に見えてしまう点。もう一点は、立体感、遠近感が現実のそれとほぼ同等であるが故に、自分の肉眼とは関係なしにカメラによって焦点が定められた映像が、不自然に見えてしまったこと。画面奥まで焦点が全て合わされたパンフォーカスでは、人の大きさが不自然に見え、逆に、或る部分にカメラの焦点が合わされていたら、そのこと自体に違和感を覚えるというジレンマ。
しかし今回は、キャラクターとして人形が用いられている、という時点で既に、現実の人間とは形も大きさも違うものをキャラとして受け入れるという約束事の内に自然に入ることができ、個々のショットがどんな構図をとろうとも、キャラのサイズが不自然に見えることはなかった。そのせいか、焦点がカメラ任せな映像も、普通の映画と同様に、違和感なく観ていられた。『アバター』では後半、3D酔いに悩まされもしたが、今回はそれもなく、快適に楽しめた。
リアルな3D映像自体、視覚的情報としてまだ見慣れないものであるから、『アバター』のような実写作品も、そのうち自然と、違和感なく観ていられるようになるのかもしれない。人間の知覚というものは、普段の習慣や常識によって左右される面が大きいのであり、僕らが「自然な」知覚と考えているものは、実はそれほど「自然」ではなかったりするものだ。例えば、昔、或る西洋人がどこかの所謂「未開」の地を訪れた際、そこの偉い人に自分たちの王の肖像を見せたところ、こう言ったという。「気の毒に、あなた方の王は顔が半分しかないのか」。その肖像画は、王の横顔が描かれてあったのだ。また、錯視図形も、僕らが視覚情報を処理する際の習慣を逆手に取ったものが多いようだ。
リュミエール兄弟の『列車の到着』が、公開当時、「列車に轢かれる!」と錯覚して逃げだす観客を出したという有名な逸話があるように、人は、慣れないものを見ると脳が対処できないことがあるわけだ。僕らもそのうち、映像が3Dであること自体には驚かなくなるだろうし、今は違和感を覚える映像に対しても、映画として観るための約束事を、徐々に覚えていくのかもしれない。
それにしても、『アバター』を観に行った際にも本篇前の予告篇で思ったのだけど、バートンの『アリス...』は、3Dが今後目指すべきでない見世物的方向の例という印象がある。画面の立体感も、なんだか飛び出す絵本のような不自然さ。被写体の奥行き上の位置関係が見えるだけで、押井守の『アヴァロン』がCGでわざと描いていたような、ペラペラの3D。・・・と思っていたら、どうやらこの『アリス...』、3D用ではないカメラで撮影された映像を、後から一コマ一コマ加工して3D化したらしい(「コンバージョン3D」という手法)。あんな不自然な3Dにするくらいなら、2Dの方がマシだ。アメリカでは、3D映画は客の入りが二、三倍になるそうで、2Dとして撮られた映画を後から3Dに加工する動きも活発なようだ。そうした、3Dの真価を理解しない手合いによる似非3Dのせいでガッカリ3D映画が増え、却って3Dへの誤った失望を招かなければいいのだが・・・。
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