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[コメント] 息もできない(2008/韓国)

修羅的反面教師として生きる覚悟。でも死ぬ準備は出来ていない。その屈折した偉大と人間くさい矛盾。アンチ・バイオレンス映画の一つのカタチ。意外なほどユーモアが目を引く。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







※ 末尾に某アメリカ映画と無理矢理比較する雑感を記しています。

主人公は「世界が燃えるのを見て喜ぶ」人間ではない。一見理性を失った狂犬のように見えるが、彼を突き動かすものは虚無ではない。父による暴力で家族を失ったことに起因する、父と、「父」を生み出す社会への不条理、そして自らの現在と過去の無力に対するきわめて真っ当な怒りである。しかし彼は「食う」ために、あるいは「食わせる」ために本来自らが最も憎むべき「暴力」を生業とせざるを得ない。暴力は語るための「言語」と化す。しかし彼はその過ちに当初から自覚的である。一方で社会的な貧困などの環境が彼を暴力の塊であることを強いており、彼は心を引き裂かれている。彼の暴力(=言語)は単なる八つ当たりのような一面的なモノではない。

彼はきわめて暴力的だが、暴力には酔っていない。繰り返すが、彼は何より暴力を憎んでいる「やさしい男」だ。「暴力という十字架を背負うのは俺だけで十分。裁かれるのも俺一人で十分」。この分裂と屈折、そして覚悟が主人公の魂の特異性だ。彼は一人を殺害したという罪に自覚的であり、「許される」ことも念頭にない。

彼は同じく暴力を生業とする部下を殴る。取り立て対象者よりも容赦なく殴る。「糞野郎」と罵声を浴びせる。一見八つ当たり・イビリなのだが、これは「暴力を後継する者」への嫌悪であり、「俺の後ろに続くな。俺と同じになるな」というメッセージにも見える。怖じ気づいたヨンジュを殴るシーンが印象的だ。「俺は遊んでいるんじゃない。背負うのは俺だけで十分だ。遊びのつもりで背負う覚悟もないなら去れ」と言わんばかりである。サンフンは「教育係」という立場にいる。彼は「ゴト」を圧倒的暴力によって完璧にこなし、「範を示す」。その「範」が圧倒的だからこそ、暗澹たる暴力を嫌悪し、彼の元を去って新たな道を踏み出した人間も多々いただろう。これは一種の屈折した「教育」の映画である、と見るのは穿った見方だろうか。何よりサンフンが嫌うのは、「酔う」ことである。彼の暴力は文字通り「遊びではない」。もてあそんではならないモノなのだ(愚鈍なままで幼稚に「手練れていく」サンジュンのニヤケ顔に対するサンフンの苛立ちは相当なものである。サンジュンに対する「教育」は失敗の一例と言えるのかもしれない。一人でぽつぽつと歩くサンフン。後ろから項垂れて続くヨンジュとサンジュン。サンフンがサンジュンに「先に帰れ」と命じる。ヨンジュとサンジュンの後ろ姿。見つめるサンフン。この位置転換。こういう細かい演出が好きです)

(一方で、それでもなお彼に付き従った者は、暴力という十字架を背負わざるを得ない何者かであったのだろう。これが「失敗」であるかの評価はしない。これは難しい問題である。)

この「教育」は、確かに自覚的に暴力という十字架を背負った者しかなしえない。サンフンは「殴るべきでない」対象は殴っていない。取り立て対象にしろ、それは「是が非でも家族を愛し、養え」という「折檻」のようだ。そして、そんな屈折した「折檻」が出来るのは確かに彼だけであり、その徹底ぶりに「戦慄」するというよりも、魂の痛みを感じてヒリヒリする。

サンフンの「教育」はしかし、父のリストカットを機に、その意味を問い直されることになる(ヨニの母を殺害してしまった時にこそ問い直されるべきではあったのかもしれないのだが、だからこそ罪を背負ったまま教育的暴力者として生きることを決意したのかもしれない。そのいずれかはわからない。この点が不明確なのが物語の矛盾点なのかもしれない)。いずれにしろ、暴力は「断絶」を生み、悲しむ者がいるのだ。この「教育」の転換と、漢江での「十字架降ろし」の情感はただならぬものがある。言ってみれば彼は修羅の教師であることに「力尽きた」わけだが、そもそもそれは背負うべきでない十字架だったのだ。しかし、その悟りが届かない対象もいる。「殴る者は殴られない」という「教育者」として彼を支えてきた哲学が、まさに「殴られる」ことによって終焉を迎えるとき、彼と、彼を見るものは真に「思い知る」ことになる。

サンジュンの「教育」が失敗であることについて触れたが、ヨンジュについてはどうなのか。彼は覚悟もなく、単純な反発と怒りのままにサンフンを殺した。間違いなく大失敗なのだが、彼が最も救われるべき対象であることも間違いない。ラスト、母を殺したサンフンとヨンジュの面影が、ヨニのイメージ上で重なったように、ヨンジュは教育者となる以前のさまよえるサンフンと同じだ。そして、サンフンの生き様を目撃したヨニは彼をどう「教育」するだろうか。その余韻は、どこか温かくすらある。不思議なアンチ・バイオレンスの名作。

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(演出面について)

サンフンが「背負っている」ことに理解を示す人間が三人いる。彼らはその「言語=暴力」の裏にあるものを理解している。彼らとの会話におけるサンフンの「糞野郎」という言葉は、優しさや、ユーモアの気配すら帯びる。さらに、ヨニとの交歓については、同じ境遇へのシンパシーでつながっていったということよりも、「どうも最初の拳の重みでわかり合ってしまったらしい」という不可解さにこそ、人とのつながりの奇妙さと、だからこその深みと面白さがにじむ。特に屋台での「口汚い」会話シークエンスは素晴らしい。それは、暴力の時代においてこそのものであり、その時代においてわかり合うからこその「ハートフルな」ユーモアである。この異様なユーモアこそがもっとも面白い部分だと理解してもいい。

カメラワークについてはいささか粗い部分が目に付く。また、本作での肝でもある暴力描写に一部無駄な箇所が散見されるのも若干残念。この贅肉部分を有効利用して、主演二人の不可解な愛の交歓をもうちょっと見たいと思ったのもまた事実。それでも基本的に恐れ入りました。監督、お疲れ様です。

・・・ところで、こういった比較表現はあまり意味のないことであるような気もするのだが、本作は『グラン・トリノ』の英雄不在の悲劇的変奏のようにも読める。どことなく各所に共通項が見られるような気がするのだが、いかがだろうか。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)アブサン[*] 水那岐[*]

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