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[コメント] リバティ・バランスを射った男(1962/米)

ジェームズ・スチュアートという“俳優”に乾杯!
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「西部では伝説が事実だ」という新聞記者のセリフにサム・ペキンパーのいくつかの西部を思い出してしまった。伝説であるが故に人物造形が歴史と伝承に燻されすぎて瑞々しさを欠き、抽象的な“男の美学”や“マッチョのダンディズム”や“監督の哲学”が横行する空虚な西部劇。しかし、この映画はいかにもジョン・ウェインというトムの性格付け、“理想に燃える正義感溢れる青年”というこれもまた陳腐すぎる性格設定のランス、愛する男のために自分に片想いを寄せる男心を利用する美女、ただ劇的に殺されるだけのために非情で残虐な暴力的言動を機械的に犯しつづけるリバティ・バランス(リー・マービン)と、まあ、どっか他の映画で再三観たことあるような人物造形にも拘らず、空虚さはほとんど感じない。これが俳優の存在感なのだろうか? これが監督の能力なのだろうか?

この映画のランスみたいに現状を鑑みないほど理想的であり、しかも理想を他人に要求するくせに、結局土壇場では己の理想に殉ずるだけの一貫性のない人間は好きになれない。ジェームズ・スチュアートという俳優もあまり好きではないが、微妙にハンサムさと弱々さが同居しているルックスとランスの性格設定がマッチしてて、個人的な嫌悪を越えたところで、どうしようもなく不可避的に魅力を感じてしまった。ジョン・ウェインのほうは別に語ることもないでしょ? あれでいいし、あれ以外どうしようがあるんだ? ジョン・フォードとくればジョン・ウェイン、タイトルは『リバティ・バランスを射った男』だし、実際に射殺したのはウェインだし、主役は彼と思われるかもしれないが、ラストの新聞記者の「伝説が事実」というセリフとスチュアートの存在感によって、脚本と俳優とが相俟って“主役はジェームズ・スチュアート”であることが指示されている。

あと気になったことといえば、ランスに恋をするハリー(ベラ・マイルズ)は文盲なのだが、それを知らなかったランスがかなり大っぴらに彼女を辱めるような形で、くどいくらい不要な質問を発する場面。あの彼女の自尊心を辱め傷つける場面がランスに彼女の教師たる地位を約束し、それが後にふたりの恋愛を深めるわけだが、「ロウフィールド館の惨劇」や「朗読者」を読んだことあるものにとっては、自身が文盲であることがその人にとっては時に自分(他人)の命を犠牲にしてまでも黙秘しておきたい事実であるという(作家に対する信頼に基づく)先入観があったんで、あんまりもあっけらかんとした文盲告白の場面は人間の心理についての洞察が甘いんじゃないのか? とも思った。ただ心理学的な緻密さが要求されているようなストーリーでもないし、他の人物自体が良いにせよ悪いにせよ紋切り型である点で、後の展開に必要なものとして機械的にお気軽に設定されたと考えれば気にはならないが。それと時代設定当時の識字率の低さが文盲であることの羞恥を相対的に軽減し、アイデンティティとって致命的な欠如にならなかったのと、現代アメリカの識字率の高さが文盲であることに対する想像力や思いやりを奪ってしまったこともあるのだろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)けにろん[*] おーい粗茶[*] ハム[*] たかやまひろふみ[*]

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