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[コメント] エンター・ザ・ボイド(2009/仏=独=伊)

視覚への侵入。おそらく現時点で唯一の映画のサイバーパンクにして、確実に映画の水準を上げる作品。映像とはこういうストーリーテリングができるのか、と驚く。"first-person"に閉塞することで時空間に遍在する(偽りの)"third-person"。(2011.10.8)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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「没自我の究極段階では、〈すべて〉がすべてのもののうちにある―〈すべて〉が実際にすべての個々である―という「漠とした認識」が生まれる。私の判断では、これこそ有限な精神にとって「宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚する」極限であると思う。」(オルダス・ハクスリー『知覚の扉』河村錠一郎訳)

 まず、これは些細なことではないと思うのだけれど、この映画のエンドロールに対する拒絶は評価されたほうがいい。いつから当たり前のことと許されてきたのか、長ったらしいエンドロールが映画をつまらなくしているのは自明のことで、ここに手をつける不届きな作品が多過ぎるという心配はまずないだろう。Coilといったアーティスト名がスタッフ・キャスト並みに大きくクレジットされ、LFOの名がよぎったところで、その曲"Freak"の攻撃的ビートに乗って、ひとつひとつは素人でもフリーソフトの2、3個を使えば明日作れそうなケバケバしい文字の嵐。かろうじて既知の名前を拾える以外、アルファベットもカタカナも漢字もほとんど意味をなさない、という快挙(しかし、それが何語であれ、膨大なエンドロールを通じて我々が既知の名前以外を記憶することが実際どれほどあるのか)。といって、もちろん、すべての映画がこうなればいいわけもなく、確実に水準を上げるが、スタンダードになるはずもないし、なるべきでもないというのが、この映画なのだろう。

 採点に気負いせず、正直な感想を言えば、個人的には、この映画の序盤は退屈で、フラッシュバックから現世に戻って(?)以降の中盤も中だるみが多くやや冗長であり、穴や光に吸い寄せられていくカメラワークもなんだかワンパターンじゃないか、と思っている。まばたきつきの主観カメラで延々と心の声まで聞かされ続けたときには、「この映画、大丈夫か?」と本気で思っていたが(ほめ言葉ではない)、結局、これは、本当の本編に入るために必要な二重構造の一段階目として用意されているといえるだろう。我々は、この一段階目で、主人公の視界への侵入を強要され、彼の死と同時に、第二段階として今度は、もはや視覚主体といえなくなった(「見ている」のか定かではない)彼の意識に飛び込んでくる時間も虚実そのものも曖昧な映像をひたすら享受させられることになる。この二重構造によって可能となっているのは、通常の主観ショットとはもはや異質な、能動性(=侵入している)と受動性(=侵入されている)とが渾然一体となった視覚体験(=侵入させられている)だ。

 こういう、視覚に侵入し侵入され、さらには侵入させられる感覚というのは、もちろん、サイバーパンクが魅惑と戦慄とをない交ぜに好んで描いて来たものである。映画に限っても、死を疑似体験する映像がやはり登場する『ストレンジ・デイズ』が挙げられるし(と半分こじつけで指摘するつもりだったが、調べてみると、ギャスパー・ノエ自身がインタビューで関連を認めている)、あるいは、ここでの関心からすると実写である必要にはこだわるべきなのだが、表現自体としてはより洗練されたものが『GHOST IN THE SHELL』にも見出せるだろう。しかし、映画がまるごと侵入する視界でのみ構成されているというのは、おそらくこの映画が最初ではないだろうか?(たとえば、『ブレインストーム』において死のヴィジョンを疑似体験しているのは、やはり作中の登場人物でしかなかった) サイバーパンク的趣向がすっかり陳腐化する一方で、SF以外のところから初めて、視覚に侵入させられる感覚をリアルに提示する映画が登場したといっても過言ではないだろう(その点、キャスリン・ビグローはさておき、『アバター』から察すると、ジェームズ・キャメロンにとっては、視覚への侵入の体験は、二重の意味で手段の次元の問題であって、意識内容・物語内容を左右するものではなかったらしい)。

 最初の〈主人公の視点に同一化するカメラ〉に対して、途中から登場する〈主人公の背中越しに立つカメラ〉は、いうなれば、3Dビデオゲームのジャンルで言うところの、FPS(First-Person Shooter)のカメラに対する、TPS(Third-Person Shooter)のカメラにあたるが、このプレイヤーが画面越しにキャラクターを見ているかのような、つまり両者の一体性に留保が付された"third-person"(第三人称)による回想が挟まれていることで、主観ショットである都市を浮遊する視点もまた通常の劇映画同様の一定の客観性を帯びたもの(third-person)であるかのように思わされる。死者の眼が、自身の過去を見返し、また彼が見知った人々のその後を見つめている、というわけだ。しかし、検索するように目的の人物に辿りつくカメラの移動からして(『ファイト・クラブ』、『マトリックス』続編のVFXスタッフと知って納得)、これは少し疑ったほうがいい。この都市はなにか仮想的な空間であるように思われ、そこで起こる出来事もまた、冒頭で聞きかじっていた輪廻思想をなぞる展開といい、「妊娠したら、ガキを殺す」という予告通りの中絶といい、あまりに出来すぎているように見えるのだ(ところで、チャッチャッと膣内に器具が挿入される陰惨な中絶手術に『4ヶ月、3週と2日』という映画の存在をふと思い出したが、これまた監督が言及していた。案外分かりやすい人だ)。終盤、いよいよ都市が現実の装いを放棄し始め(どこからどこをどうとも判別しがたいが、マルク・キャロによる異様にして見事な美術)、模型であったはずのラブホテルが実物大で立ちそびえると、この疑わしさは露骨なものになる。ホテル内に集う登場人物たちもまた、そこが主人公の記憶から構成されている世界に過ぎない可能性を示唆する(主人公を警察に売った友人が男にフェラチオを強要させられている)。

 チベット、トーキョー、パツキン(死語?)、ノイズ・ミュージックみたいな組み合わせとしては、『マスター・オブ・シアツ 指圧王者』(中沢新一脚本)という短編のご親戚という気もしないでもないが、前作『アレックス』の中にヒントを借りれば、肉体を喪失した主人公の眼前に繰り広げられる本作の映像世界は、映画史的には『2001年宇宙の旅』でモノリスと接触したボーマン船長の体験に連なるといえるだろう(そういえば、『2010年』には、幽霊化したボーマン船長が宇宙船内を移動する主観ショットがあったんじゃなかろうか)。だがもちろん、この映画の主人公を待ち受けるものはスターチャイルドへの変貌などではなく、あくまで「無(the Void)」であると明言されている。

 『チベットの死者の書』は開こうと思ったことすらないのだが、ハクスリーによると、「それには死者の霊が〈虚空(the Void)の明光〉を前にして、いやそれよりも小さな穏やかな光の前ですら苦痛のために尻込みし、自我という居心地のよい闇の中に大急ぎで駆け込み、人間として生き返ったり、あるいは獣や不幸せな亡霊、あるいは地獄の住人として生きることすら甘受するさまが描かれている」らしい。もちろん、この映画の終わりにぽつりと告げられる「無(the Void)」とは、この引用に倣うなら、むしろ「自我という居心地のよい闇」の側にあたるだろう。母の胎内という自我以前に還ろうと欲するものが自我以外であるはずがない。母と妹をめぐる精神分析ぶった物語に特別の興味は感じなかったが、これだけ途方もない映像を費やしておいて、深遠ぶった超脱的世界が繰り広げられるどころか、卑小な一個人の感性世界にひたすら密着し、何の啓示も悟りもなく終わる、というのは、かえって心地よいのかもしれない。

 しょせん有限な精神は有限なものしか知覚できない。おまけに、その有限なものにすら耐えることができない。そんなノエのやさしくもあり残酷でもある声が聞こえる気がする。

(*)監督インタビュー・・・http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/gasparnoe/index.html

(評価:★5)

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