[コメント] エンター・ザ・ボイド(2009/仏=独=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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全編にわたって舐めるように浮遊するカメラ(視線)。物理的な障壁と空間と、「穴」を超える視線。究極の「のぞき」の映画であると言える。それは「思慕」であり、「視姦」でもある。
みえる、ということに意思は介在しないが、「視る」さらに「のぞく」という行為は、欲望の介在なしに成立しない。とにかく「ほしい」「愛しているから視る」(「リンダ」)、あるいは「憎い」「憎いから視る」(「リンダとマリオ」)。欲望の介在しないショットがほとんど一つもない、というより、終始主観で撮るなら、それは欲望を撮り続けるということ。「視る者」は、欲情し続ける、ということ。終始こだわりの見え隠れする「穴」を通じて視線が「侵入する」「犯す」といった一貫した姿勢。そのイメージは終始セックスに重なる。それが「きたない」とか「きれい」という評価ではない。ただ、「視る」ということが「そういうものである」ということ。
視る、という行為の暴力性や、時に美しさ(思慕、恋慕)、または「思慕」のグロテスク(トイレへの侵入)への洞察を基本にしていることについては言うことはないが、一方で男性目線でありすぎるように思う。「視られるもの(商品化される性・視線の対象)」としての「ストリッパー」としてのリンダの役回りだが、設定がいまひとつ消化されていない。
また、核になっている物語がどうも面白くない。視界をジャックされる「快感」または「心地よい不快」(主体の暴力・恐怖・憎悪への衝動を同期されるもの。個人的には『隠された記憶』をはじめとしたハネケ作品、キューブリック作品群に顕著)のいずれにも振れず、設定の必然であるとは言え、蜜の味にもならない幼児的惨への同期強制は苦痛だった・・・マザーファッカーの視点強制という暴力を「悪意」に昇華させるならまだしもなのだが、そのつもりはなさそうである(揶揄に見えないこともないシーンが、あるにはあるのだが、「冷笑」であるかは微妙)。制約を超えるための「死者の視点」という制約も、設定上ワンパターンな俯瞰視点にならざるを得ず、必然とはいえ息苦しい。フレーム外に思いを馳せさせるものがなく、むしろ事象とショットの連鎖は行儀が良すぎるように見える。視点の強制も好悪半ば。ノエは真面目過ぎるような気がする。
・・・「のぞきの映画」と言えば『ブルー・ベルベット』のほうが上だと思いますし。「視線」への洞察についての結論は、『羊たちの沈黙』が実にあっさりと説得力のある形で提示されている。。「視られる」という状況については、前述の『隠された記憶』が「視る」という行為との対比の中で完璧に語っていた。
主演「男優」賞=カメラ。
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