[コメント] セラフィーヌの庭(2008/仏=ベルギー=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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制作シーンでも、キャンバスを刷く筆が絵具を盛る光景へのフェティシズムは感じられず、画布へ向かうセラフィーヌの表情が主な被写体。パリに戻ったウーデが小さな展覧会でセラフィーヌの絵を見つけ、その進歩に目を見張るシーンでも、絵のディテールを映し出すカットは無く、一瞬、絵が映るのみ。ご近所の人々に絵を披露していくシーンでも、画布を捉えるところから始まるショットは必ず、キャンバスの裏から覗くセラフィーヌの顔を捉え、眼前の知人との会話へと移る。
教会や肉屋や、諸々の生活空間から画材を得ていくセラフィーヌ。言わば天からの自然な恵みから絵を描いている。川で裸体で水浴びをする無垢な(と一応言っておこう)姿をウーデが見かけるシーンは象徴的。
だから、ウーデによって才能を讃えられ、展覧会も開くし絵も売れると言われると、これまた天恵のように無尽蔵の恵みが得られると錯覚して浪費に走る。絵を買ってくれた人のことを言う時も、「オワゾー(鳥)だかクールド(川)みたいな名前の…そうそう、カスーさんだわ」と、自然物の名と取り違える。この辺からの言動は、その素朴さが却って完全に痛い人に転じてしまい、なんだか現実的で見ていて疲れる。別にそれだから駄目だと言うつもりは無いが、この映画は終始、天使の声を聞くとか樹と交流するとか言うセラフィーヌの内面に迫ることは無く、一歩離れて見守るスタンスで撮っている。
「不景気」「恐慌」という、人々の思惑が生み出した人為的天災のような事態を受け入れられず理解もしないセラフィーヌ。天恵から見放された(と思い込んでいる)セラフィーヌは、天使のように純白な衣装を着て町を彷徨い、自分のために買っておいた品物を、聖人のように、戸口に置いていく。それを見た人々が呼んだ警官が眼前に現れると、抵抗さえせず素直に連れて行かれる。セラフィーヌは、目の前の出来事を受け入れるという姿勢で一貫している存在で、唯一それに抗おうとしたのは、ウーデとの電話で「天使たちもやってくるのよ」と展覧会の延期に抗議したシーンだろう。そこが彼女の転落への転機とも言える。
天地と裸で触れ合っていた彼女は、それまで人に罵倒され軽視されていた反動なのか、人々も天地のように無条件で自分に恵みをもたらしてくれると勝手に期待してしまったことで堕天使となったのだろう。ラストカットでは、大樹の傍らに椅子を置いて向かい合っているが、それまでのように直に樹を抱きしめたりはせずに、距離を置いている。彼女の再生と、それでももう取り返しがつかないのかもしれない変化とを、共に感じさせる終幕。
[以下蛇足]
ところでこの映画、某衛星放送で観たんですが、作品について語り合うコーナーの中での、某放送作家兼脚本家とイラストレーターさんがワウワウやる会話で、「あのヌードのシーンは必要だったのか」などと、ベタな演出意図すら読めていない発言が出たり、某氏が作品に捧げたポエムで、無視していた作品を後から平然と誉めそやしたりする「時代」というものへの違和感が詠われていたりして、虚しい溜息が出る。じゃあ、あのままセラフィーヌが売れっ子になって、彼女の浪費もまるで問題無いようなことになれば全てハッピーな映画だったのだろうか。映画を観てどう感じるかはそれぞれの勝手だけど、具体的な画面にまるで目が行っていないような手前勝手な見方をしていると、結局は、画面の中で何かが起こっていようともそれを見過ごしてしまうような姿勢にとどまってしまう。それは映画を見棄てるのと同然なのではないですかね。局の方は、映画初心者への入り口として位置づけているのかもしれないが、こんな内容では、初心者以前の段階で足踏みさせるようなことにしかならないよ。人のよさそうな雰囲気でやってはいるが、毒にも薬にもならないというより、むしろ毒。
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