[コメント] 八日目の蝉(2011/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
通常の犯罪ものにならないところがいいね。永作博美 は最後まで犯罪者で、誰をも責めたりはしない。そして誘拐した女児にも両親にも感謝こそすれ謝罪はない。あくまで自分の信念で起こしたことがらであり、そういう意味では前向きだ。まずそこがすこぶる爽快だと述べたい。(通常の活字を追っただけでは悪名高き犯罪者の話である。)
そして血を分けた我が子でもないのにむしろそれ以上に愛情をかけられる存在である女性というものの強さよ。それは子育てという概念を超え、自分のたぎる血を混濁させ、人生への歩みとなる基盤になり得るということのすごさ。
また自分のせいではないのに周囲を不幸にしてしまう女児の心境は計り知れない暗闇の孤独を想像させる。その視点を明確化した角田光代はやはりすごい、、。
こういう三面記事の1事件の陰に果てしない別の事件が潜んでいるということを感じさせる人間の明暗はすなわち人生の深淵足り得るということでもあるのだ。僕は主要人物を客観的に等距離に描写するその演出はやはり正しいと思う。むしろ感情を排しているその映像は人間の生きる強さ、空しさ、哀しさを強く印象付ける。
しかし、この映画を見続けているとき僕にとって印象的だったのは永作博美でも井上真央でも渡邉このみでもなく、小池栄子と 田中泯なのであった。
小池の、生に対する自信のなさを表現した、大きな躯体を少し前傾の、そして内股に歩く演技。それは今までの彼女の演技とは全く対局的である。僕はこの映画の登場人物がどちらかというとみんな前向きなのに、彼女だけが仏陀の後をとぼとぼ歩む弟子のように見えてしまい、現代の迷える人間を象徴させていると思った。
田中泯はある意味、現代における神(仏陀)のような存在であろう。人を見たときにその人のすべてを知ってしまう存在、、。
この二人がが僕にとって一番印象的だったと述べる僕も正直困ったものであります。やはり前向きの人たちだけの世界は僕にとっては少々苦手です。そう、だから怪演の小池栄子のすっぽ抜け状態の終わりは僕にとっては不服です。それとも成島出の意図とは違い、小池がただ目立ってしまっただけなのか、、。
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