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[コメント] 八日目の蝉(2011/日)

お引越し』の奥寺佐渡子は地方の観光的でない生活感を映画に採り入れるあたりの筆に冴えが認められる。この映画も小豆島に腰を落ち着けてからが本番だ。全篇「面白さ」の創出にかけてはからっきし無頓着の演出が続くが、島での幸福な時間の重ね方までもつまらんの一言で片づけてしまおうとは思わない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







永作博美井上真央を血の繋がりのない「母娘」に当てるというキャスティングが、意地が悪いというか、映画の主張を露骨に示している。すなわち、永作と井上は顔が似ている。少なくとも、井上は森口瑤子よりも遥かに永作に似ている。相似/類似に関して、「映画」は非常にシヴィアーに表現してしまうメディアである。小豆島の時間とは永作と渡邉このみが相似を育む時間だった、などと云っても全面的に誤ってはいないだろう。逆に云えば、森口は渡邉との相似を育む時間を永作に奪われた。

さて、これは私が嫌うような「それなりに感動的であるかもしれないお話を体裁よくまとめ上げただけの映画」とばかりは云えない作品だ。これについてもキャスティングを切り口にして語ってみるならば、それすなわち田中泯である。田中が登場する写真館だけがその他の全シーンの日常性から隔絶した不穏な磁場を形成している。そもそも男性が立ち入ることを許されないこの物語にあって、どうして田中だけが「母娘の繋がりを永遠に記録する」という決定的な役割を演じることができるのか。それは『メゾン・ド・ヒミコ』のタイトル・ロールを務めた経験を持つ彼が「性」や「年齢」や「生死」を越えた存在としての振舞いを期待されて起用されているからだろう(ちょうど宮崎駿美輪明宏を用いるのと同じように)。つまり、彼は、端的に云って「神」だ。井上が写真館を訪れてのちに展開される十七年前の記念撮影シーン、背景を欠いた空間で永作が渡邉に“何か”を受け渡す。そのさまをじっとフィックスで見守りつづけ、田中の「顔上げて」というただ一言が画面外から、まさに神の声であるかのように低く響く。まったく異様な時空間だ。成島出にとってはこれが決定的なシーンにふさわしい決定的な演出だったということだろう。その目算が誤りだったと断じる気は私にもない。

(評価:★3)

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