[コメント] さや侍(2011/日)
「芸がない」
私は松本人志の盲目的な信者であり、あまつさえ松ちゃんの作品に自分がこんなことを言う日が来るなんて、思いもよらなかったけれど、ほかにしっくりくる日本語が思い浮かばないので、とりあえず「芸がない」ということで感想を書いてみようと思う。
処女作『大日本人』は「ごっつええ感じ THE MOVIE」として楽しんで見た。『しんぼる』は本当につまらない映画だったけれど、松ちゃんが作品に「笑い」以外のメッセージをこめてきたことに心底感動した。そして今作、ラストでそのメッセージはより具体的なものとなってスクリーン上に現れ、やはり私は胸を打たれてしまった。ただ、ラストまでの1時間半については、正直に申し上げて『しんぼる』よりつまらなかったのだ。
今回、松本人志は物語を撮ろうとしたのだと思う。「フリとオチ」ではなく、「起承転結」を撮ろうとしたのだと思う。だが、そうして一度設計されたプロットは、練りこまれることなくプロットのまま撮影・編集されてしまっている。
基本的な設定はすべて、娘のせりふによって明かされている。物語を展開させるのもまた、娘のせりふだ。松本はこの娘を「マセガキ」として登場させたつもりかもしれないが、「マセガキ」はマセていてもガキでなければならない。ところが『さや侍』の観客は、作品世界の情報開示をすべて娘に頼らなければならない状態になってしまった。この時点で「マセガキ」の「ガキ」の部分は機能しなくなってしまうので、娘がキャラクターとして成立してこない。脚本家は、娘にある程度の情報を持たせつつ、きっちりと「ガキですよ」という主張を挟み込んでキャラクターに命を吹き込むということを「プロットからシナリオを作成する」というプロセスで行わなければならないのだけれど、『さや侍』はその作業を完全に放棄していると感じた。つまり、まずシナリオに「芸がない」。
演出面でもそうだ。能見が町人から支持を集め始めたくだりを説明する際に、何のひねりもなく数人の町人に「がんばれよ!」と言わせている。観客が増えていく様子を、入場札に書かれた数字とその量だけで表現している。「物語がヒートアップしていってますよ」という演出に、まったく驚きがない。単にそれっぽい、どこかで見たことのあるシーンで説明されているだけだ。松ちゃんは「映画好きじゃないしたいして見てない」と公言しているけれど、それがモロに欠点として露呈しているのが、こうした演出の凡庸さだと思う。事実関係がただ進展しているだけで、そこにドキドキもワクワクもない。たとえば北野武は『その男、凶暴につき』で、チンピラをクレーンに釣って何度も海に沈めて見せたり、便所で執拗に張り手をしたりして見せた。『ソナチネ』では砂浜の人間紙相撲を延々と映し出して見せた。そのいずれもが、単なるプロットの段階では存在しなかったはずの「映画の演出」というものだったと思う。『さや侍』にそうした映画の豊かさを見出すことは、ついに最後までできなかった。繰り返される「切腹を申し渡す」というシーンの、その画面の、なんと貧相なことか。若手ナンバーワンカメラマンの近藤龍人をして、その持ち味が発揮されたのはオープニングと、あとは瞬間的に数えるほどしか「画面力」が見えなかった。山中貞夫は、クエンティン・タランティーノは、どうやってプロットの行間を「映画」で埋め尽くしてきたか。それを考えようともしない演出家・松本人志は、やっぱりあまりに「芸がない」のだ。
いま日本の映画界で、松本人志の映画はもうカルトになってしまっていると思う。自分のような「松ちゃんが何かやるならとりあえず見ておくよ」という松本信者か、「松本がまたぞろ何かやってるからひとこと言ってやろう」という物好きか、「とりあえず可能な限り劇場公開映画を見るんです」というシネフィルか、それくらいしかもう松本映画の客はいないだろう。要するに、ハードルは上がりきっているのだ。ほとんどの人は、そのハードルをくぐって、まるでそんなハードルは最初からなかったような顔をして『パイレーツオブカリビアン』を見に行くのだ。そういう現実が、たぶん松ちゃんには見えていない。松ちゃんの映画は、本人が言うように「国内で評価が低い」のではなく、ごく普通に「おもしろかった/おもしろくなかった」で映画を語る客がほとんどいないのだ。
これからきっと、どんどん世間の評価と松ちゃんの自意識はかけ離れていくと思う。でも、私たちを徹底的に啓蒙して、松本人志作品のハードルを上げたのはほかならぬ松ちゃん自身なんだから、それは仕方ないことだと思う。
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