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[コメント] モールス(2010/米=英)

ぼくのエリ 200歳の少女』の乾いた青白い色彩とは対照的な橙色(と緑)。似たような映画を再生産しても詰まらないのだが、オリジナルの、無機質な冷たさの中に僅かな体温を感じさせる切ない世界観、それに拮抗する何物かを構築し得ていない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







『ぼくのエリ』の、冷たく乾いた空気で全てが漂白されたような世界観があったからこそ、公園にポツンとあるジャングルジムでの出逢いや、凄惨な殺人などのシーンが際立っていたのだということを、あらためて確認する結果に。因みに、オーウェンのルービック・キューブ(正方形の連なりという点での、ジャングルジムとの類似性)をアビーが容易く完成させるのは、アビーの能力の優位性、つまりはラストで虐めっ子らを容易く引き裂いてしまうことの前振りと言えるだろう。

『ぼくのエリ』で鮮烈な印象を受けた、夜の闇に降りしきる雪の冷たく純白な輝きが忘れられない身としては、オリジナルと同じことをしても無意味ではあるが、オリジナルに匹敵するような何かが見えてこないなら、それもまた無意味だと言いたくなる。舞台がアメリカで、言語も米語だということで、アメリカ人が喜ぶだけの話じゃないんですかね。

渇きや冷たさの欠如は、単に色彩の面のみならず、ショットへの意識にも表われている。アビーに噛まれて吸血鬼化した女が、病室でカーテンを開けられ、日光を受けて炎上するシーンや(そもそもこの女の炎上の意味合い自体が異なっているような……)、「入っていいよ」をオーウェンに言ってもらえないまま部屋に入ったアビーが血を流すシーン、プールでの悪ガキ八つ裂きシーン等、色彩のみならずショットの構図やカットの重ね方に於いてもまた、鮮烈な「痛み」の感覚を喚起する渇きと冷たさを欠いている。

そもそも、ショットで感心させるような要素が、『ぼくのエリ』と比べて乏しい、或いはヘタな模倣の域を脱していない面が多々。よかったのは、アビーの「パパ」の、予め獲物の車中に忍び込んでおいて背後から襲うという手法や、二度目の襲撃シーンの、獲物の友人が後から乗り込んでくるサスペンスや、車を奪ってから横転するまでを車中からの主観的ショットで捉える演出。あとは、オーウェンが、アビーの「パパ」が少年期に、今と同じ年頃に見えるアビーと並んで撮った写真を見つけ、愕然とするシーンくらいか。

オーウェンの母は敬虔なキリスト教徒らしく、食卓で神への祈りを捧げるが、そんな母に学校での様子を訊ねられても、オーウェンが悩みを話すことはない。宗教狂いの妻に愛想を尽かしているらしき台詞を電話口で言う父は、少年の傍にはいない。少年の苦境に対して神は沈黙し、父も、学校のコーチも助けてはくれない。方や、アビーは、年配の男に人血採取を代行させたり、転んで動けない振りをする彼女を親切に助けようとした男を犠牲にして生き延びるのだが、そうした、人間社会の権威や道徳を踏み躙るアビーこそが、少年にとっての救い主となる。

ラストショットでオーウェンに、アビー入りスーツケースにモールス信号を打たせるのはいいのだが、それならちゃんと、隣り合う部屋の壁を打つことによるモールス信号の交換(=交感)を描きなさいよと言いたい。壁一枚隔てての、隣接感と隔絶感の相俟った距離関係は、『ぼくのエリ』の方が、窓を外側から捉えたショットなどで感じさせてくれていた気がする。まあ、あのラストショットで、モールス信号のすぐ後に、車窓から日光が差し込んでくる辺りは、オーウェンがアビーを守っているのだということが実感できていいのだけど。

浴室でアビーに襲われた刑事が、瀕死の状態でオーウェンに手を伸ばすのに対し、オーウェンが、手を差し伸べるかのように見えて、浴室の扉のノブに手をかけて閉めるというあのシーンは巧い。この動作によって、オーウェンが人間的秩序=刑事を見放して、人外の存在・アビーの側に立った決定的な瞬間が見てとれる。この後、血塗れのアビーはそのまま、背後からオーウェンを抱きしめる。オーウェンもまた人の血によってその身を染めるわけだ。更には、血に濡れたアビーの唇が重ねられる。

台詞の面で最も重要なのは、「女の子」という言葉だろう。オーウェンは虐めっ子らからそう呼ばれてバカにされているのだが、そのオーウェンは、アビーから「女の子じゃなくても好きでいてくれる?」と訊かれたりもする(この台詞の意味に於いても『ぼくのエリ』の痛切さを欠いているのが、また……)。だが、虐めっ子リーダーも、兄から「女の子」と呼ばれてバカにされていて、兄が去った後にこの少年は、友人らに八つ当たりをする。つまり彼がオーウェンを「女の子」呼ばわりして虐めるのは、兄からの抑圧を反復しているのだとも取れる。しかしまたオーウェンも、アビーからの助言の通りに彼に復讐し、棒で打たれた少年は耳から血を流す(許し無く部屋に入ったアビーはこの流血を反復)。暴力に対して暴力で報復するのは悪循環だと言いたくなるところだが、そうした真っ当な道徳を踏み躙るようにして、アビーはプールのシーンに於いて、実は気弱で強者に従っているだけにも見える少年らも含め(少年らは、例の兄貴がオーウェンを溺死させないかと心配している)、虐めっ子全てを容赦なく八つ裂きにし、水面を血に染める。

『ぼくのエリ』と比べると、虐めっ子リーダーの兄の性格や弟との関係性が、かなり冷たいものになっている。その他の面でも、吸血少女や少年に憎悪を抱く人間もまた、善悪の彼岸の愛に駆られているのだというあのニュアンスが消失したせいで、やはり米国的な大味さが出てしまっているように感じる。繊細さや切なさといった美点では、比べものにならないほど劣化していると言うしかない。

(評価:★3)

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