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[コメント] CUT(2011/日)

シネフィルというのは本当に頭のおかしいナルシスティックかつファナティックな阿呆なのだと実感せざるを得ない、全くもって気色悪い映画。冒頭の、日本語混じりのタイトルのダサさからして全然信用できないのだが、実際そういう映画。
煽尼采

二階堂ふみみたいな、ミニシアター好きですよといった若い娘がこういうのを観て感動するのは若気の至りとして別に構わないのだけど、多少ともスレた観客となった僕のような人間は、最初は苛々、次いでコメディとして笑いながら観ざるを得ない。まあさすがにこれだけ畳みかけられると、終盤では鬼気迫るものを感じはするのだが、そもそも主人公の人物設定自体がなんだか不毛にも思えるわけで。バスター・キートンの映画を観て笑う観客が、都会の隅で健気に映画を守る、正しく善なる信者のように映じてしまう辺りなどは、ちょっと気味が悪い。ただ素直に可笑しくて笑うというよりは、それを観て笑えるということで、正統なる観客としての自己証明にしているような、かなり無根拠かつ自足的な選民意識の臭みが嗅ぎとれてしまう。

三島由紀夫の聖セバスチャンに自らを擬したような受苦に倣ってか、西島秀俊演じる主人公がひたすら殴られても耐え続け、死ぬものかと踏ん張る(死ぬのが嫌というより、死んだら映画が作れないといった様子)姿が、そのまま「芸術であり、真に娯楽であった」映画が、シネコン的商業主義に殴られても耐え、死なずにいることへの希望として描かれているのだけど、大人はここで突っ込まなきゃいけない。お前が殴打に耐えることと、映画が社会情勢に耐えることを、短絡的に等号で結ばれても、こっちは困るんですが、と。ボロボロになりながら立ち向かう姿、容赦なく叩きつけられる拳の音、といった視聴覚的な刺激そのものに自律的な根拠を見出す「映画的」な意志の表明だとかいった理屈があり得るのは重々承知してますが、その手の理屈にも飽きたというか・・・・・・。そもそも、映画というのはもっと、「映画的」なるものを疑いつつ創られてこそ生命に触れられるのだと考える方なので小生は。主人公が自らの裸身に映像を投影させることで、俺は映画の代わりに自らを打たせるのだといったナルシシズムを成立させているように見えるシーンなど、主人公自身はそれでいいとしても、撮ってる側は、彼に対する批評的な距離を少しはとりなさいよ、見てて恥ずかしいよと言いたくなる。

名監督らの墓前に立つモノクロのシーンなどは、自閉的な「映画愛」とやらを自ら満足させるための自慰のおかずに墓を用いているような冒涜性さえ感じさせられる。ヴィム・ヴェンダースが『東京画』で小津安二郎の墓石に刻まれた「無」の東洋的ニュアンスをイマイチ掴みきれていない印象だったことにももどかしさを覚えたが、本作の軽薄さは更に上をゆき、「芸術であり、真に娯楽であった」映画への挽歌のような意味合いを与えんとでもしてるんですかと言いたくなる演出には違和感ありまくり。

唯一、あのバーの暗さと色彩感、その空間的な広さそのものがどこか荒涼とした雰囲気を醸し出す造形は好きなのだけど。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)サイモン64[*] セント[*]

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