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[コメント] サウダーヂ(2011/日)

義務ではなく権利として2000年代の日本に登場した映画だ。地方都市の虚脱と土着性の喪失。本来、土着は粘着を生み、鬱陶しいまでの生命力の源として生活者を支配していた。それがいつの間にか生気を抜かれ、粘着だけが残るこんなに危うい姿になってしまったのだ。
ぽんしゅう

根ざすべき土地を見失った者たちの魂は、粘着する先を不器用に求めなら地縛霊のようにさまいい続ける。

かつて、高度経済成長が進行する以前、土に生きる者とは農夫であった。さしずめ現代の土に生きる者とは土方だ。土木作業員の精司(鷹野毅)は資本主義の尖兵として最前線で土にまみれる。しかし、右肩上がりの経済成長が終焉をむかえたいま、精司は土に生きる者の本能として「何もなくなったニッポン」を嫌悪し、彼のさまよう粘着の残滓はまだ見ぬユートピア、タイへの固着を希求する。おそらくタイもまた、精司とっては「何もない土地」のはずなのに。

タイの娘(ディーチャイ・パウイーナ)は、涙を流しながら納豆を喰らい日本人になりたいと訴える。この祖国を捨てたいガイジン娘は、自分の父親は日本人だという。そして、その父は彼女が来日してすぐに死んだという。本当に彼女の父は日本人なのだろうか。本当に死んだのだろうか。その男は、あまたの「ニッポンのオトコ」たちのなかにまぎれ込んでしまっただけではないのか。いや、始めからそんな男はいなかったのでは。この娘にとっても、現実のニッポンは「何もない土地」でしかない。

かつて、家は土地に根ざし家系をつむぎながら生活の拠りどころとして、ささやかだが確実に個人の歴史を刻む場であった。猛(田我流)とその弟は核家族、すなわち切断された家系の象徴である団地で育った。兄弟は、家族が崩壊したいま、ガイジンに占拠されたその「山王団地」を幸福に満たされていた故郷として懐かしむ。そして猛はガイジン文化であるヒップホップに自らの解放区を見い出しつつ、街(生活空間)にたむろするガイジンたちに苛立ち面前の異物を敵外視する。猛の粘着はいびつに歪んでいる。

甲府を追われ東京へ、そして東京から逃げ出し甲府へ戻った、まひる(尾崎愛)の「ポジティブ」という虚勢の皮をかぶった不器用で節操のない粘着は、まわりのニッポン人をひたすら苛立たせる。それとは逆に、日本に留まるか、フィリピンへ帰るか、ブラジルへ戻るのかと思案する団地のガイジン一家は粘着力を失い、「移住民」ではなく「移動民」と化し、国家や国籍や国境の意味を無化しながら、土地と土地の狭間をさまようのだろう。

中味ではなくカタチしか理解できない空疎な女や男たちの妄信は、地元産の胡散臭い天然水の効用を波紋のように拡げ、政権獲得を目指す地元の野党議員の空々しい笑顔は、女や男たちの無自覚という無知の輪を伝って伝染病のように拡散する。形骸化した「地元」に無理やりつながろうとする思考停止者たちの群れの不気味なこと。そして、文字どおり風のように彼らの空疎のなかを、何の抵抗やこだわりもなくただ吹き抜けていく、自称タイ帰りの保坂(伊藤仁)の見事なまでに「何もない」放浪。

富田克也が描く地方都市の、あまりの「何もなさ」に愕然とするが、ここには確かに凝縮された2000年代のニッポンがある。この「何もなさ」は、義務として作られる商業映画では絶対に描き出せない「正直さ」から生まれるものであり、そこに暮らす生活者である映画作家、富田克也だからこそ権利として提示できた「現実」の感覚なのだ。時代を総括する、すごい映画だと思う。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ガリガリ博士[*]

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