[コメント] 生きてるものはいないのか(2011/日)
その思い切りの清々しさ。
現実的な了解の枠組みを越えて、「はいこの人(この役)終了」とばかりに人が倒れてもがけば、その「死」が完了する。それで映画が成立する。それこそ貧相な学生映画か三文コントのように。「現実」をあてにしないで、ただそれをやったらそれをやったことになるという単純な開き直りだけで映画を成立させる試み、その思い切りの清々しさ。
「ルサンチマン」とはこの世で果たし得ない恨み辛みを、ものの解釈を組み替えることでその価値や意味を反転させて、あんなものにはなんらの価値も意味もない、あるいは悪い価値や意味しかないと信じよう(また信じこませよう)とすることだが、ここにはしかし、その種のルサンチマン的な恨み辛みのよくも悪しくもの“生真面目さ”はない。反転すべき「現実」の価値や意味を論うには、あまりにもみもふたもなくただただ“全滅”のさまだけが、それだけが映画のルールであるかのように映画全篇にいきわたる。そして実際、この映画にはそれしかない。それしかないなけなしのアイデア一本で映画一本を思い切りやりぬくさまには、やはり清々しさに似た感慨も抱かないではない。
際どいところで成立していたと思う。
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