コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 共喰い(2013/日)

いったい時代に何周遅れしているのか計算不能なほどに古い、いや、死んで干からびた内容。釣竿や鰻が男根の暗喩(もはや暗喩と呼ぶのも恥ずかしい)という安易さや、今さら父権批判という古さ以上に、昭和天皇批判を戦争絡めて唐突に挿し込む接ぎ木感よ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







釣竿のカットは確か、恋人・千種に粗暴に振る舞ったせいで拒絶された主人公・遠馬が、父・円が時折通っていたアパートの女のところへ転がり込んで彼女を買った直後に挿入されていたと思うのだが、不在の父の釣竿の隣に並んだ釣竿がグイッと持ち上がる、という形で、父の暴力的な性衝動を反復する息子、をそのまま、安直な意味に於ける「映画的表現」に落とし込んでしまっている。そもそも鰻釣りに誘ったのは父のほうなのだが、自分から約束しておきながら釣り場に現われなかった父に対し、息子は、父の言葉を無視しておきながら、そのくせ、約束は律儀に果たしているのだ。この、父からの約束を果たしつつも父に裏切られる息子、という構図は、暴力的な父の血の遺伝を最初は否定していながらも飲み込まれゆこうとする息子、暴力的性欲によって恋人を蹂躙されさえする息子の立場の暗喩でもあるだろう。んで、「共喰い」ね・・・・・・。この、何とも昭和臭のする父子葛藤劇の中身をそのまんま提示したタイトルには、安直さというか、品位のなさが臭って、どうもな。

この鰻、釣り上げた本人である遠馬も口にしないし、父の愛人・琴子も口にしない。釣り場で店を開いている母・仁子も、父以外に食わせるなと警告していた。汚染された川で釣った鰻など食うものではないというわけだが、恋人に拒まれた遠馬は、風呂場で自慰に耽り、放たれた精液は排水口に吸い込まれて川に流れる。川は、父と息子の同一性としての血の暗喩でもあり、二人の欲望は、川、琴子、アパートの女、千種、等々を介して循環している。抗おうとも飲み込まれ、否応なく反復される血の呪い・・・・・・、ハイハイ、この時代に中上健次っぽい原作小説が書かれてヨカッタネ!、と、監督と脚本家に皮肉な眼差しを向けたくなる。それにしても、遠馬が過去を回想する形をとるナレーションに光石を起用するという手法は、さすがに厭らしすぎて気色悪い。

仁子が刑事たちに連行されるシーンで、神社で待っていた仁子は、鳥居をくぐるのを避けて脇を通る。遠馬が千種と神社で性交した後に立ち去るシーンで、遠馬が千種の月経を気にしていたことから、鳥居は血を忌むのだと観客の脳裏に刻印されていることで、刑事の「まだあるのか?」という台詞の意味を解することができるのだが、同時に、当の仁子が、遠馬から、父が訪ねてきたときに乱暴されていないか訊かれたシーンで、「もう女でなくなったから何もしない」と答えていたことも想起する。刑事に対する仁子の答えは、「あの人の血で汚れた」、つまり、千種を犯した円を刺した際に受けた返り血のことを気にしていたのだ。既に女として終わった仁子、月経という形で血を流すこともなくなったであろう彼女が、「女」を求める衝動に駆られて怪物と化す男の血を受ける。

この辺まではまだ、なんだか非常に古臭いが、敢えて古臭いものを撮りたくて撮ったんならまぁ正直でいいかも、と適当に受け流して観ていられたが、遠馬の面会を受けた仁子が、「あの人」が血を吐いたとニュースで知ったと話し始めたところで、あほらしさは頂点に達する。「血」というテーマを唐突に、万世一系の血統の話に持っていくわけだ。それまで、慎ましくも激しく、狭い世界に濃縮された情念を撮っていた筈の映画は、左翼ゾンビの繰り言がしたり顔で垂れ流される臭い画面へと一変してしまう。仁子は、もう義手をはめていない片手について、「あの人」の起こした戦争で失っただの、「あの人」より長生きしてやるだのとのたまうし、後のシーンで遠馬は、テレビのニュースで、「あの人」が、病状は持ち直したが「体内で出血している恐れがある」ことを聞く。暴力の源泉としての「血」が、見えないところで流れ、男根的支配を内部から崩壊させているのだというわけだ。遠馬と千種が神社で性交するのは、神社=皇室的なるものへの批判なのか。円に犯された千種は、「罰が当たった」などと、達観したような表情でいるが、「罰」を与える円の男根支配がそのまま天皇制と重ね合わされている印象。仁子が円に出会ったのも、祭りという、神を祭る行事のさなかだというし。

遠馬と円の「血」が云々という父権支配の話だけでも既に古臭く、また、事を解決するのはすべて女、殴られるのも女なら、それを受け入れるのも女、その落とし前をつけるのも女、という構図は、男根的権力を批判しているかのようなポーズの裏に、女への甘えがだらしなく垂れ流されているように感じられ、その、男の無力と不能を装うポーズそのものが女への依存を前提としている無自覚さが、これまた何とも気色悪い。父に犯された千種に対して、自分がやったのだと悔いる遠馬を優しく慰める千種、その落とし前をつけて刺殺するのは仁子(自ら実行しようとする遠馬に、「あんたはできん。あんたは殴られたことがない」と言い放ち、彼女を追おうとする遠馬を千種は、「殺してくれるなら誰でもいい」と止める)。そして遠馬は、琴子に誘惑されるが、「弟か妹を突くようで」と気にしていると、父の子ではないと告げられる。が、突こうとすればまた、「お腹の子が動いた」と琴子の言葉で中断させられる。暴力の万世一系は繋がれておらず、何だか分からぬ血を継ぐ子によって種付け行為は妨げられる。加えて、それまで性交を痛がっていた千種は、自分に手を出す遠馬に「その手は何のためにある。私をかわいがるためじゃないの」などと言って遮り、彼の両手を縛って、痛がりもせず自ら彼に跨る。結局、悩み苛立ち嘆くだけで何もしない男は、受動的なセックスマシーンに改造されてしまうのだ。これを、男としての能動性の剥奪と捉えることも勿論できるが(仁子の切断された手は、これまた去勢の暗喩にされているんだろうか)、反面、すべては女が解決し、男は勃起するだけで女によって何となく肯定されてしまう、という甘えた姿勢が透けて見えるようで鬱陶しい。そうしたところに更に、天皇制批判のクリシェをぶち込めば、何か社会にコミットした映画になるかのような勘違いをいまだに脳ミソの皺にこびりつかせているらしい、腐敗した感性が腐臭を放つ。

何も、天皇を批判するなと言うつもりはないが、これでは、荒井晴彦が粗いとか何とか言って叩いていた『アジアの純真』のほうがまだ、現代に向かい合っているだけマシである。だからこそ、まさに現在の観客から大いに叩かれもしたわけだ。それと比べて、この『共喰い』とやらは、一昔以上前の左がかったカルチャーに浴していた爺さまたちの自慰のためにしか用がない。昔のクリシェに忠実だから、そういうのが好きな年寄りからは喜ばれ、現代の社会状況のリアリティとは全然関わらないから、本気で叩いてくる人もいない。安心安全の社会批判。くだらない。そもそもこのストーリーに天皇制をぶち込んでくる必然性がどこにある? いちいち天皇制批判を入れ込まないと、社会にコミットしている実感が湧かないのか、そんなテーマを挿し込むことで、物語が普遍性とやらを帯びるとでも思い違いしているのかは知らんが、二十一世紀に存在する必要のない映画。唯一、今は川が清浄化していてなかなか見つからなかったという、汚れた川を映像として収めたことくらいしか価値がない。「昭和が終わった」ところでこの映画も終わるが、その書き手自身にとっては死ぬまで昭和は終わらないんだろうなと呆れる。

原作を読めば、何がどういじられたのか明瞭になるんだろうけど、ただでさえ食指の動かないうえに、石原慎太郎が褒めているというのがなー。自分に噛みつく若い者を鷹揚に受け入れる、横綱相撲の大作家、という役を石原なんぞに演じさせたのは厭なことだな。

(評価:★2)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)袋のうさぎ ユウジ 赤い戦車[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。