コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 悦楽(1965/日)

生きている実感。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 映画は、教え子・匠子(加賀まりこ)の結婚式から始まる。以後、映画内では、脇坂(中村賀津雄)が匠子を愛していることになるが、脇坂という男は、この結婚式で初めて自分が彼女を愛していると知る。それまでの憎からず思っていた気持ちが、実は愛だったとわかったのか、単に愛だとすることに決めてしまったのか不明だが、要するにこいつは、自分が何を愛し、何を愛さないかさえ、自分でよくわかってない男だ。生きている実感のない男である。もちろんそういう男となってしまうにはいろいろな伏線があって、その設定はかなり特異な物である。だが設定は特異かもしれないが、現象としては普遍だ。普遍的な現象を特異な設定で描くことは、大島の謙虚さないし奥床しさであると思う。自分にとってこうだからといって、他人にとっても無条件でそうであるとは、大島は考えないのである。「生きている実感のない男」を造形することが目的であったにすぎない。

 金で女と贅沢に暮らしたところで、相変わらず彼に生きている実感はないのである。ヒモ男(戸浦六宏)が、嫉妬心から金勘定を失い、本来は自分の≪商売道具≫である女房の顔に薬品(硫酸か何か?)をかけようする姿を見たとき、彼は、狂おしく女房を愛すヒモ男に、人間の生きている実感を見ただろうか? いや少なくとも、自分の与えた奢侈な生活に恩義を感じ、人としての筋を通そうと自ら小指を切り落とそうとする女房・野川由美子に、それを見たであろう。あるいは仕事がない貧困だ不幸だといいながら、平気で這いつくばって不幸の底を舐め尽くさんとする志津子(八木昌子)とその夫の姿に、ある種歪んだ充足感を見たであろう。頑ななプライドから男に心も体も許してこなかった女(樋口年子)が、自分の与えた優しさと安寧に、疑問を抱きつつも少しずつ心を開いていく姿に、女という性が求める幸せの本性を見たであろう。要は彼は、自分の人生を生きればよかったのだ。自分の人生を生きることができなかったのだ。それは何故か。むろん映画から教訓を得る必要はないし、大島もそんな風に描いてはいない。私も、もののついでに書いてみたまでである。

 映画にはどうしても結末というものが必要なので、本作にも結末がある。だがそんなものは沢庵の尻尾みたいなものだ。その巧拙はここでは問うまい。

75/100(09/09/13記)

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。