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[コメント] あなたを抱きしめる日まで(2013/仏=英)

事件もさることながら、これはヒロインの生き方を肯定する映画ではないか。彼女は世間知らずながら尊敬すべきパーソナリティの人間でもある。大きな包容力をもち、巧まざるユーモアを身につけ、そして不幸を「神」のせいにしない。
水那岐

どういうことかといえば(以後は勝手な「宗教的でない宗論」です)。

フィロミナは宗教人であり、対するマーティンは無神論者であるようにわれわれは取り勝ちだが、悪い出来事や呪うべき事実を神のせいにしているマーティンは、まだ宗教のくびきから逃れられていない宗教人なのだ。神は言わば人格を投影された個人の生き方の規範であって、個々人の恥辱を映すことで知るべき鏡であるというのが「よくできた宗教」に相通ずる解釈であることを知らないと、銭洗い弁天で金が儲かるかとか、逆に神が人権を人から取り上げるといった見当違いの話になる。だから、否定するはずの神の「御技」により右往左往する人々を見て神を憎むマーティンと同時に、最後の審判時のさばきを信じて曲解された教義で人を律する修道尼もおかしいのだ。

「神」とはもうひとりの自分であり、個々人が胸の中にだけ抱く決して狂うことなき冷静な架空の人格である。もちろんそんなものがいなくても暴走する自分にブレーキをきかせられる人間は、「神などいない」と断言して全く問題はないのだ。マーティンが神がいないというなら、全ての自分にふりかかる災厄は「自分」という人格の結果であることを認めればそれでいい。宗教の教義などというのは、自分を抑えきれない弱い人間のために、他人が用意した決まりごとでしかない。

だから、ヒロインはたとえばカトリックの教義に照らして敬虔であるか、などというのはきわめてナンセンスな設問だ。たぶん彼女の中にいて、彼女とともに死んでゆくだろう「神」に彼女は恥じることなく行動している。それこそが自らを誇るべき人間だ、と解釈すべきなのだろう。

(評価:★3)

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