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[コメント] 儀式(1971/日)

「儀式」という空虚なものについて。
KEI

「儀式」というものはすべて認めないという立場をとってきた−だからこういう映画は観る以前の問題なのだ−が、去年友達から相談を受けた。彼の娘が結婚式も挙げないで同棲を始めた、式はする積もりはないと言っている、これを認めていいのかというもの。

 認めていいのだと言って欲しかったらしい彼の思惑は別にして、私はその時、それはイカン!ケジメとして式を挙げさすべきだと答えた。

 ケジメ、そうなのだ、人生にはその時々でケジメというものがあってもいいのではないか、と最近思い始めていたからだろう。何でもかんでも否定するというのは間違っているのではないかと最近思う。所詮いい加減な人間が作った儀式であるなら、それを遵守するというのは間違いであるのは当然だが、逆に全く否定するというのも間違っているという気がしている。

 というより儀式を作った人間は何故それを作ったのか、という事がすごく気になるのだ。作りたいというのは何が原因の衝動だろうか。・・・それを作った人間は「心の拠り所」としてその時々の儀式を作ったのではないかと考える。そこに衝動があって、本質があるように思う。

 「形骸化」という言葉がある。物事の記憶をどんどん忘れていく人間という生物にとっては「形骸化」は成るべくしてなる当然の事柄だが、やはりその意味−どういう衝動でこの儀式が成り立ってきたのか−を考えるということが重要であり、その後に自分を自分自身たらしめることになっていくのではないかと思う。

 今日の私はコメンテイターではなく思索者です。日記替わりにしてすみません。

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