[コメント] 儀式(1971/日)
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自死と死に損ないという主題に三島事件の残響が甚だしく、小松方正夫妻の左翼が小馬鹿にされる辺り、時代の空気が濃厚である。野球少年だった河原崎建三が生き延びるのは、岸首相の「後楽園球場はいつも人で一杯」なる、いわゆる声なき声を背景に安保反対運動を批判した論法への反応に違いない。戦争は個人レベルでは70年まで継続されており、その後は死に損ないの政治屋とサイレント・マジョリティだけが生き残った、と。リアルタイムで政治の季節の終焉を記録した大島は、やはり剛腕だった。
50年代、60年代はいま観てもリアルな政治映画が日本で撮られたのに、それが70年代以降は激減し、取り上げてもその殆どが何か空疎なトンデモ映画の類に堕してしまった。大島自らも政治映画を撮るのを止めてしまう。それじゃあ駄目だと思うのだが、なぜ駄目になったのか。新左翼の凋落が大き過ぎたのか。しかしそれだけが政治映画ではなかったはずだ。ともあれ、本作はその端境期をシンボル的に示しているのだろう。
大島が好きだった私の大学時代の映画友達は、あろうことか、今は一水会とかいう組織で活動している。本作を観直して、それは曲解だろうと思った。「改造法案」は本作では、そんな持ち札しかなかった連中の哀れを醸し出すためだけに活用されている。しかも連中は死んでしまったのだ。今更これを持ち出すのはネオ・ナチの論法でしかない。今度そう云ってやろう。音信不通だけど。
本作、白眉はやはり花婿だけの結婚式。小松の結婚式での歌合戦も素晴らしく、戸浦六宏の猥歌、一高の寮歌を歌えない佐藤慶、白ける「インターナショナル」と受ける「芸者ワルツ」、父親に向かって歌う土屋清の「麦と兵隊」など、戦中戦後総覧の趣。子役の場面は大島らしく瑞々しく、地面に耳を当てる反復は心に残る。過去はこのようにしないと聞こえない場所にあるのだ(後年、大島作品に登場するデヴィッド・ボウイの「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」のPVに、地面に触れる動作の反復があるのは偶然か)。
佐藤慶、小山明子とリアルタイムの賀来敦子の三人にだけ眉毛がない、という記号論的配置、視覚的には絶妙だが、それなら中村敦夫と土屋清が剃っていないのはおかしいのではないだろうか(眉毛がない中村敦夫を是非見たかった)。ラストの三島節は賀来の自害の手際の良さも手伝って美醜ぐだぐだ、浜辺で死ねない河原崎との対照が鮮やか。
この作品の欠点はやはり短いことだろう。台詞でのみ語られる回想、例えば河原崎の父や弟の死にしても、中村敦夫の造形にしても、舌足らずの感が否めない。戦後25年を振り返る中間決算にあたってはアンゲロプロス並の尺が不可欠であっただろう、残念としか云いようがない。あと、佐藤慶の強姦しまくり親父とその一族という貴族的な世界、「日本帝国主義」とどう関係があるのか、もうひとつ掴みきれなかった。女たちの陰の采配を強調するなら小山らではなく乙羽信子が全面に出なくてはならないのではないか。「性と政治」という当時の主題が私はもうひとつ理解できない(70年代に政治映画を引き継いだのはポルノ映画だったが、私にどこまで理解できているか心許ない)。理解できればもっと面白いのかも知れずこれも残念。
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