[コメント] 今日子と修一の場合(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
社会的たらんとする作品の多くが非常にしばしば映画外の原理(論理)に足をすくわれて面白さを損なってしまうのに対し、もし『今日子と修一の場合』が何とかそれを免れていたとするならば、それはやはり(いささか同語反復めいてしまうが)この映画が各所に魅力的な細部を備えていたからにほかならない。
魅力的な細部というのはたとえば、物語の本筋とも密接に絡むところで云えば、中華蕎麦屋で右利きの柄本と左利きの小篠恵奈の肘がぶつかって顔を見合わせるカットの幸福感がそれだ。一方で、本筋とは無関係にある純粋に画面的な例を挙げると、安藤が和田聰宏と暮らす自宅アパートに帰る道すがらの後景、路地奥のやや開けた空間を電車がグッドタイミングで横切るカットで、「映画」はまさにこういったところにこそ息づくだろう。また、来歴に対する想像を掻き立てずにはおかない和田(隙あらば歌を詠じるアーバンコーディネーター!)も社会的に始まり社会的に終わるだけの映画には持ちえない豊潤なキャラクタリゼーションであるし、町工場の食堂になぜかピアノが置いてあるなどというのも実に奮っている(なぜか、と云ったが、もちろんこれは和音匠の音大受験の道を閉ざさないための田部周の親心のためであったことが後に明かされる。ゆえにこの「種明かし」は、ひたすら面白さを求めるだけの観客にとっては少しく興醒めであっただろうと書き添えなくてはならない)。
社会に対するある種の使命感が奥田瑛二にこの映画を撮らせたことは想像に難くないが、彼はそのような作品に特有の近視眼的な演出の誘惑を斥け、その梗概からは想い及ばないような可愛らしい細部・微笑ましい瞬間を創造している。そのような意味において、たとえどれほど辛苦に満ちた物語が繰り広げられたとしても、この映画は幸福な在り方を生きていると云うべきだろう。
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