[コメント] 毛皮のヴィーナス(2013/仏)
女優役をロマン・ポランスキーの実生活上の配偶者であるセニエが演じ、対する演出家役を若き日のポランスキーとよく似たルックスを持つアマルリックが演じることから、ある角度から描かれたポランスキーの自画像をこのアマルリックに見出そうとするのは、なるほど真っ当な見方ではあるだろう。しかし、ともすれば少しく素直すぎるかもしれないこの見方に、私はアマルリックとセニエが夫婦を演じたジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』の記憶を呼び起こすことで彩りを添えてみたい。
一方、きわめて限定された出演者・空間・劇中時間から「映画」を生み出そうとする演出にかけて、『毛皮のヴィーナス』が『おとなのけんか』に引き続く試みであることも云うまでもない。一見したところ「条件」は前作よりも単純かつ厳しくなったかのように思える。複数の異なる部屋=空間を持っていた『おとなのけんか』に対して『毛皮のヴィーナス』には一個のステージしか与えられず、出演者の数は正確に半減している。ただし、ここでも留意するべきは、見かけの上ではいっそう単純になった「条件」に仕組まれた複雑な内実についてである。
『毛皮のヴィーナス』は一個のステージ上においてのみ物語が展開するようでいて「客席」や「舞台袖」「舞台裏」も周到に活用し、自己言及的な地位を与えられた「照明」は劇に決定的な効果をもたらす権力を有する(この映画はポランスキーにとっての何がしかという以上に、まずもってパヴェウ・エデルマンの労作です)。また、劇中劇「毛皮のヴィーナス」とは無関係の(西部劇の!)装置が設えられることで、画面の感情は常に相対化・複数化を被ることになる。出演者に関しても「『おとなのけんか』から半減して二人になった」ことの単純さよりも「二人四役になった」ことの複雑さを指摘してしかるべきだろう。
さて、ちょっとした思いつきの域を出るものではありませんが、次のことについても記しておきたいと思います。というのは、ロマン・ポランスキーとウェス・アンダーソンの相互接近についてです。この思いつきのきっかけは『おとなのけんか』でポランスキーが衣裳にミレーナ・カノネロを起用したことで、彼女は私にとってフランシス・フォード・コッポラやスタンリー・キューブリックの諸作以上にアンダーソン組の人物でした。このように気にしてみると、アンダーソンが二〇〇九年の『ファンタスティック Mr.FOX』以降、ポランスキーが二〇一〇年の『ゴーストライター』以降、音楽にアレクサンドル・デスプラを迎えていることにも思い当たります(もっとも、デスプラは当代一と云ってよい腕利きの売れっ子ではあるのですが)。さらに『毛皮のヴィーナス』の主演アマルリックがアンダーソンの最新作『グランド・ブダペスト・ホテル』にも出演していたことから、注目の範囲はキャストにも及びます。まずは何と云ってもエイドリアン・ブロディです(『戦場のピアニスト』/『ダージリン急行』『ファンタスティック Mr.FOX』『グランド・ブダペスト・ホテル』)。オリヴィア・ウィリアムズもそうですし(『ゴーストライター』/『天才マックスの世界』)、調べなければ思い出せませんでしたがトム・ウィルキンソンも両監督の作品に出演していました(『ゴーストライター』/『グランド・ブダペスト・ホテル』)。『グランド・ブダペスト・ホテル』のグスタヴ・H役には当初ジョニー・デップ(『ナインスゲート』)が予定されていたというあたりも付け加えたいところです。以上が単なる偶然や牽強であるのか、それとも何らかの映画史的な意味を持つのかについて現時点で断定することは難しいでしょうが、このように見ることによって、退屈の気配が漂いかける『毛皮のヴィーナス』にも面白がれポイントをひとつ追加できるのではないでしょうか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。