[コメント] 驟雨(1956/日)
成瀬からは多くを学ぶことができる。美術・照明・脚本などあらゆる要素が演出と密接に関わり合っている様。またはその隠れた前衛性。
例えば佐野周二の脚にネクタイが絡まる1ショットの後に、屋外/屋内の境界に立ち隣家の奥さんを見やるショットを入れることで後の波乱を予感させ、更にその後原節子がネクタイを取りに来ることで客観性をも保たせる手腕。
或は隣家を覗く/から覗かれる人々を窓とパンフォーカスを駆使し、1カット内に収めて、それぞれの立ち位置を瞬時に理解させる画面。そのショットを構築するための計算された美術。驟雨の前後での照明の変化。
原節子のバストショットの間に佐野周二が座った状態から立ち上がっていたり、上着を脱いでいたりする。人物の動きを画面外で行わせ、無駄な動作を見せずに省略させるカット割りの周到さ。また、そうしたカット割りは映画の進行をよりスムーズにさせるためのものであるはずだが、逆にカットとカットが繋がっていないような違和感、断絶性を画面にもたらす。その静かなる前衛さ(こうした前衛性が最もよく表れているのが『山の音』)。
自治会の会合での各人物の面白さは、この1シーンだけで『十二人の怒れる男』を超えている。極め付きは、唐突なのにもかかわらず「これしかない」と思わせるラストの風船球の応酬!
演出の突出でもなく(突出しまくってるけど)、撮影や演者が目立つということもなく(目立ちまくってるけど)、映画は文字通り「総合」藝術であると思わせる。それこそが成瀬の素晴らしさであり、凄みなのだ。
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