[コメント] ラブ&ピース(2015/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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長谷川博己を拉致り、公衆の面前で『デトロイト・メタル・シテイ』の「資本主義の豚」の如く首輪につなぎ辱めるバンド男のギターが亀の装飾、彼曰く「昔の人は世界が亀の甲羅に支えられてると考えた」。亀=世界を支えるもの=夢、といった公式がこの映画のテーマとして容易に導き出される。
西田敏行は、人々に夢を届け、捨てられた夢を回収し、それらを最初の無垢な姿に戻して再び人々に届けるという、夢溢れるようでありつつ虚しき絶望の塊りのようでもある存在。その西田サンタの不思議なキャンディの力で亀は長谷川の夢を実現しつつも、その頂点において、巨大な姿で人々の前に姿を現し、長谷川が唯一の心の友であった「亀ちゃん」に夢を語った言葉をオウム返しにする。ロックスター長谷川の叫びは、結局、すでに商業的成功という虚飾の輝きに毒され、この亀ちゃんに語りかけていた寂しい自分の心の囁きの純然たる強度に敵うものではなかった。かつて、亀の存在を恥ずかしいものとして隠していた長谷川だが、その夢の頂点で、夢の根っこの部分がこうして曝け出される。亀ちゃんが、無垢なあどけない声で「カメチャン」と、自分に優しく呼びかけてくれた言葉を繰り返すさまは涙を誘う。
だからこそ、打ちひしがれた長谷川が、遂に元のボロアパートに帰還することになるのも必然だ。かつて、彼をスカウトした渋川清彦は、高級マンションにこのボロアパートのレプリカを用意し、「帰りたければ帰ればいい」と長谷川の自由意志に委ねるようなフリをしていたが、レプリカとしての、元のままの生活がすぐそこに在るということ、自分は本質的には何も変わっちゃいないんだという自分への言い訳によって、長谷川は商業ロックの論理に取り込まれていくわけだ。
ただ、その商業ロックに取り込まれる、ということのいちばん最初の表われであるはずの、歌詞の中の「ピカドン」という衝撃的な言葉が「ラブ&ピース」というオブラートに包んだ、というより、ハバネロを抜いてホイップクリームにでも入れ替えたような改変を何となく流れのままに受け入れてしまうというシーン、これは長谷川自身はニュースでたまたま耳にした「ピカドン」という言葉をそのまま亀の名に付けただけで、原爆の記憶の風化へのプロテストといった意味はない、というか、ピカドンが何であるのか彼自身が知らない。むしろここでは、ピカドンと名づけられた亀への思いが改変された形になるのだが、それは結局、映画のメタファーとしてそうであるというだけだ。互いにとっての「ピカドン」の意味が違うため、長谷川の思いがビジネスの論理に押し潰される、という対立の構図にはならず、単なるすれ違いでしかない。
そうした曖昧さのせいで、感情の葛藤というものが明確な形で生じず、なんとなくあやふやなドラマとして不完全燃焼ぎみだと感じる。巨大化した亀ちゃんがコンサート会場で皆の前で言ってしまった「裕子さん(麻生久美子)と付き合いたい」のその裕子さんが、ボロアパートに帰った長谷川を迎えに行き、無言で見守るラストシーン、その意図は明白なのに、裕子さんという人が長谷川にとってどういう存在なのか、観ているこっちの胸に迫る形で描かれていたとは思えず、抽象的な、「不遇の、惨めな自分だった頃の唯一のささやかな希望」といった意味の記号という以上のものではない。長谷川と裕子さんの具体的な、心温まるエピソードの一つくらい描いておいて然るべきだろうに。
西田サンタの地下水道、そこは暗くじめじめした寂しい空間でありながらも、天国へ向かうときを待つ者たちが一時憩う優しい場所でもある。トイレに流された亀ちゃんが下水を流れていきながらそこへ向かうシーンは、『バットマン リターンズ』のペンギンの秘密基地を想起させる。虐げられ捨てられた者にとっての漂着の地にして、最後の救済の場。
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