[コメント] さようなら(2015/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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静かに生を慈しむような映像がいい。窓から差し込む光や田舎道を行く自転車から、トリュフォーやタルコフスキーが想起される。見上げられる青い空も歪んだショットもいい。事故後の細部も、ああ当然そうなるよねというリアルがあり優れている。差別問題の話題から逃げるように去る新井浩文の件も、突然に自死を選ぶ村田牧子の件も彫りが深く、これらは直接には原発事故に起因する悲劇でないのだが、避難優先順位との兼ね合いで差別が燻り出された結果だったのだ、いかにもありそうな話である。作者が満州から市民を置き去りに逃げた軍人たちへの嫌味を忘れていないとすれば頼もしい。ここまでは素晴らしいのだ。
しかし収束は納得がいかない。原発事故という科学の暴走を批評するにあたって、なぜアンドロイドという科学に記憶を託すのか。そりゃ機械だったら100年でも忘れず覚えているだろうが、人がいなくなって残る記憶の何が美しいか。これでは半世紀前の手塚治虫の想像力を一歩も出る処がない。「鉄腕アトム」が原発推進の旗頭だったことへの自戒、手塚ファンの自己批判が有為の作者たちに生まれているのに対して、本作の収束はいかにも劣っている。これでは結局タイトル通り、鬱病気質の面々が別れ別れになっただけの、成瀬映画の通俗版に過ぎない。人は死ねども詩は残る、というのも19世紀のロマン主義の発想でいまや滑稽だ。原発を前にしたとき、いまリアルなのはいかに生き延びるかではないのか。本作で死ぬのはブライアリー・ロングではなく、アトムの末裔ジェミノイドFであるべきだった。
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