[コメント] ブリッジ・オブ・スパイ(2015/米)
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ただし“stand between A and B”という英文の日本語訳を想い起こしても明らかなように、「AとBの間に立つ」は「AとBの間を取り持つ」ばかりでなく「AとBの間を阻む」も含意する。ここで、ハンクスの映画的職能が前者であり、『ブリッジ・オブ・スパイ』におけるその象徴的構造物が「橋」であること、また「壁」が後者を象徴するべく対照的に配置されていることは申すまでもない。当事者と当事者の間に立ち、彼らを橋的に繋ぐ「非-当事者」ハンクスは、云うなれば「間接の人」である。(※)
ところで、私たちの生活世界と実によく似た像をスクリーン上に結んで視覚に訴えかける「映画」は、もっぱら「画面で語る」ことを推奨される媒体である。素朴な印象として、この「画面で語る」という語句は「視覚的に直接表現する」と同義であるように捉えかねない。しかし優れた映画はむしろ「いかにして間接的に表現するか」に腐心するもののようだ。
試みにこの映画の最終盤を振り返って、その間接性をいくつか例示してみよう。橋梁上でマーク・ライランスとオースティン・ストウェルの交換が行われるシーンにおいて、ハンクスは同時にライランスと米国人留学生ウィル・ロジャースの交換も企んでいる。しかしその二番目の交換の成否を知るには〈電話報告を待つ〉しかない。ライランスはハンクスに対する謝意を〈絵画に込め〉、またライランスの帰国後の待遇は〈露国人の出迎え方〉によって示唆される。そしてハンクスの「出張」の真相を、彼の家族は〈テレビ報道〉を通じて初めて知るだろう。
「間接の人」そのものを主人公に据えることで、『ブリッジ・オブ・スパイ』は映画の脚本・演出において間接性を駆使する技術の一端を自己言及的に示している、とも云えるだろう。もっとも、仮に映画の教科書なるものがあったとして、かような技術はその初等篇に記されるべき事柄に過ぎない。
(※)世界貿易センターのツインタワーをワイアーによって橋的に「接続」し、ジョセフ・ゴードン=レヴィット自らがその上を(さながら生体における血液か、電子回路における信号のように)「往復連絡」することでツインタワーに「生命を吹き込んだ」とするロバート・ゼメキス『ザ・ウォーク』が『ブリッジ・オブ・スパイ』とほとんど同時期に公開されたことには奇態な縁を感じます。
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