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[コメント] 妻への家路(2014/中国)

虚仮の一心を描き続けて四半世紀、チャン・イーモウはついに超然とした世界を物した。見事な老境の作品。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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冒頭の銃を担いだバレエ、駅舎の捕物におけるクロサワを想起させる目線の交錯、序盤に据えられたこの狂気の沙汰のような場面の強度が、静かな中終盤にも基調低音としてずっと鳴り響いている。それはコン・リーの心情風景でもあるに違いない。彼女の脱落した表情、よく判らない論理一貫性(「何で私のしたことだけ覚えているのよ」)、頑なさ、時に見せる柔和さ、それらから個人的に死んだ母親をずっと思い出していた。痴呆や老人を身近にする人には、リーの造形の凄さがよく判ると思う。記憶障害を扱った映画には傑作が多いが、本作はそのなかでも明らかに優れている。見たこともないような幻想風景に逃げない演出も好ましい。

イーモウは撮影監督の頃(『黄色い大地』)から一貫して虚仮の一心、思い込んだら命懸けを撮り続けてきた。『菊豆』などの悲劇があり、『秋菊の物語』や『あの子を探して』などの喜劇があった。本作の収束はしかし、これまでの傑作にさえ収まり切らない大きくて複雑な器を持っている。センチメンタルに捉えればこんな片思いの形もあるとシンミリもする(餃子を差し入れる件の美しさよ)し、障がい者への寄り添いの勁さや、政治への抵抗を読み取るのも正当だろう。しかし、それ以上の感慨がこのラストには確かにある。幾度となく訪れた、まるでカフカの「掟の門」のような駅舎の入口、降る雪の静けさに表情を失った三人の佇まい。あの表情の脱落は、妻の境地に夫も娘も達したことを示している。二人もまた駅舎で誰かを待っているのではないだろうか。太宰治の「待つ」という掌編が想起される。心が通わないのに同じ方向を向いて何かを待望する三人に、個人を超えた原=宗教的な祈りが浮かび上がる。三人はこのとき、同情を誘う気の毒な人たちでは決してない。羨むべき認識に達した人たちなのだ。

高齢化社会において、これはリアルな他者との接し方なのではないだろうか。シェイクスピアが喜劇、悲劇を経てロマンス劇に至ったように、イーモウはこれまでとは別の、超然とした次元に触手を伸ばしている。

序盤の逃亡の場面、夫はまず娘に「明日駅で」と妻に伝えるように云い、娘は拒絶し、その後で夫は紙切れに同じことを書いて妻のいるだろう部屋に差し入れる。これは脚本の瑕疵かと観ながら思っていた。娘が怪しいなら、待ち合わせ場所を変えるべきだろう。駅で妻の名を絶叫して捕まるのも不自然だ。しかし、これでいいのだと、家に戻って風呂に入りながらようやく気がついた。夫は、娘が密告するならそれでいいと思ったのだ。捕まるだろうに出かけたのは、紅衛兵になってしまった娘への謝罪であり、どうせ捕まるのだから一目妻を見ようと名を呼んだのだ。再会後、謝る娘に悪いのは自分だと云う夫の言葉は掛け値のないものだったのだ。複雑な世情が重い。

本作のパンフレットは実に丁寧に作られており、素晴らしいもので、これ即ち作品の素晴らしさなのだと思う。ぜひ一読をお勧めする。イーモウの伯父ふたりが国民党将校で一族は不遇だったこと、毛沢東の「反右派闘争」と四人組の文革との差異、今でも中国で文革を語るのは微妙な問題であること(『活きる』は中国では未公開!)、リーの家族は文革で四散し家に幼い彼女だけ残されたこと、さらに現行政府の検閲の状況まで述べられている。

イーモウはインタヴューでチャン・ホエウィンについて「彼女の目の変化が重要でした。彼女にはそれを表現する力がありました」と語っている。なんて的確なのだろう。「瞳から知性を消してくれ」とミゾグチは森雅之に命じたらしいが、ホエウィンは瞳から序盤の狂気を消すことができるのだった。箆棒な新人もいたものである。リーは役作りのため病院に泊まり込み、イーモウは彼女に演技を任せ、あの優れて映画的なプラカードもリーの提案であるとのこと。まるで成瀬と凸ちゃんのような信頼関係だ。プラカード書き直しの件、大切な夫の名前を忘れて雨に流れたプラカードを見直すリー。なんて切ないのだろう。三人のためにあのラストを絞り出したイーモウに感謝したい。

(評価:★5)

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