[コメント] 乱れる(1964/日)
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ナルセ印のチンドン屋が宣伝カーに取って替わられる時代の変遷。コメントに打ってつけと喜んだのだがこの対比有名らしく、DVDの解説にも書いてあった。この解説で有益だったのは本作の成り立ちの説明で、もとはテレビドラマ(主演は渡辺美佐子!と山本学)で、そこでは何と礼子が身を引き家を出る処で終わるのだそうである。
映画も、そこで終わった方がいかにもいぶし銀のナルセらしいだろう。彼らしからぬ派手な終盤だし、『乱れる』という煽情的なタイトルもらしくない。当時インタヴューで彼は「自分の殻を破るのだ」と繰り返している。この後、『女の中にいる他人』『ひき逃げ』と派手めな推理劇が続く(どれも好きだ)。本作もその一環、ということでナルセらしくない本作、らしくなさを愛でる作品だ(小津の『風の中の牝鶏』や『宗形姉妹』のように)。
意識し合う凸ちゃんと加山雄三の目線の交錯がスリリングでいい。二間続きの部屋の片方の照明を消して、その出入りで陰影をつける演出が決まっている。杉本春子を派手にしたような草笛光子が抜群に嫌味。派手さはラストで極まり、クロサワそこのけの力感と詠嘆が曰く云い難い印象を残す。優しいエレキギターつま弾くテーマ曲はラストを達観に導くかのようだ。個人的に忘れ難いのが凸ちゃんが加山をお寺に連れ出す件で、私もああいう具合に彼女に振られたことがあったような気がする。それでも強直な加山はいい奴だ。
DVD解説で違うなあと思ったのは、酒屋の顚末を描く序中盤と道行の終盤が分裂しているという評で、それでは加山がただの色情狂になってしまう。加山は凸ちゃんの運命を転落させた責任から逃れられなかったのだ。彼は迂闊にも知らなかったのだ、酒屋をスーパーにする手続き自体に家内制手工業的なものの排除が組み込まれており、店の存続の試みは必然的に凸ちゃんをそこから弾き出してしまうことを(草笛はイジワルなだけではない)。義理と人情の板挟みから加山は道行を選んだのであり、もう戻ることはできなかった。彼は近松の登場人物だったのだ。ラスト、茫然と佇む凸ちゃんは、これは道行だったのだと突然に気づいたのだ。松山脚本、ここでは社会派として進退窮まる世界を見事に描いている。
凸ちゃんの過去を科白でしか回想しないのは、前作の『女の歴史』で戦中戦後の苦労を詳述したのだからもう繰り返しませんと云っている風であり、2作で1作と捉えていいのだと思う。彼女の洋服と和服の使い分けは絶妙で、洋服着るとおばちゃんなのに、和服になると突然に美しい(現代の日本女性はこの点大いに勘違いしていると思う)。これを物語上で大いに活用している。体躯を斜めに傾けて疾走するのは凸ちゃんの得意技のひとつで(『この広い空のどこかに』などその印象しかない映画だ)、本作の強烈なラストを呼び寄せている。
ナルセは最後に一転地味な『乱れ雲』を撮る(私はこれが一番好き)。やっぱり俺はこれだと考えたのだろう、『乱れ雲』は『乱れる』のやり直しの気配がある。上記の終盤のないテレビドラマ版に似ているだろう。道行はあるが、中途で断念するのだから。作家の内面の葛藤は知る由もない。しかし、いずれも傑作である。
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