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[コメント] ネオン・デーモン(2016/米=仏=デンマーク)

美は、自らが望まぬままにその魅力で怪物を誘い、怪物は美を呑み込んで我がものとしようと望む。部屋=身体。壁と、滑らかな肌。ドアを開きまた閉ざすことと、処女性。
煽尼采

怪物を自らの内へと誘い込んでしまう美は、それ自身が怪物性を有している。美を我がものとすることは、自らが怪物と化すということ。怪物の怪物性を涼しげな顔で我がものとし得る者のみが、美をも我がものと出来る。それがなし得ない者は、怪物の餌食となるか、自らの内側から怪物に食い破られる。

女同士の嫉妬や、美を巡る台詞の遣り取りなど、余りにも既知の範囲を出ず、またあからさまに過ぎ、エル・ファニングは、若くて処女性を有するという以上の輝きを特に感じさせず、彼女を巡って狂気の渦が巻き起こることの納得性が無い。その純朴さが、周囲の賞讃によって美の自覚と怪物性に目覚めていく過程には何らの凄みもなく、ただ傲慢さを増していく小娘の域を出ない。

そもそも監督はファッション業界に興味など無いのだろう。ファッション業界は、美という規範そのものから半ば離脱しているアート業界とは違い、美の絶対的な力を追い求めるがゆえに、却って、時の流れと共に揺れ動く規範の曖昧さ、つまり流行に敏感なはずだが、「若い」「痩せている」「綺麗な肌」「その鼻は元から?」といった平板な台詞でしか美は語られず、そうした最大公約数的な基準を飛び越えた美を感じさせないファニングが、作劇上の都合で絶対化されている恣意性を眺めるのは虚しい。

鑑賞前に期待していたほどの映像美が堪能できなかったのが残念。映像美さえあれば、あとはほぼどうでもいいというくらいの気持ちで観始めたのに。美しく撮ろうとしてはいるようだが、厳密さが足りない。

だが、ファニングのショー出演シーンは、闇に光となって浮かぶ幾何学的な美に彼女が魅入られ、それと一体化するイニシエーション性を帯びる。ショーの観衆の視線も声も必要とされてはいない。最も美しいのはエンドロールの、もはや人間の身体から解き放たれ、抽象化していく映像美。そこにはもう、美を奪い合う人間たちの吸血的な醜い闘争も存在しない。

そもそも監督は、人間の造形美なんてものを信じていないのではないか。だからファニングにも、女王然とした紋章風の化粧を施し、そのことで余計に、生まれたそのままで完璧な美の象徴として語られるファニングの存在性を否定してしまっている。劇中で幾度となく賞讃されるファニングの美なるものへの向かい方が曖昧で、かつ、積極的に美の曖昧性を描こうという姿勢にも見えず、単に監督自身が曖昧な人間に思える。それが、この作品を失敗作として印象づける致命的な点だろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH けにろん[*]

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