[コメント] ひき逃げ(1966/日)
まったくもって異形のルック。シネスコにもかかわらず黒白、というだけならまだ異常とは云えないにしても、唐突に挟み込まれる夢・妄想・フラッシュバックの狂気的な造型はなんだ。過剰に照明の操作された画面はSF映画の第三種接近遭遇シーンのよう。これが成瀬と高峰が辿り着いた地平なのか。
司葉子と中山仁の車内シーンはカメラ・ポジションこそ一八〇度異なる(つまり、二人の背後から撮っている)ものの、スクリーン・プロセスの具合もあってまるでヒッチコックのような画面だ。
さて、もちろん、これを「成瀬らしくない」という理由をもって失敗作と評する人がいることを私は理解できる。脚本はとても巧緻とは云いがたいし、高峰秀子はともかく司はもっと綺麗に撮ってほしいなどとも思う。しかしながら、サスペンスに挑戦した『女の中にいる他人』『ひき逃げ』は時代の要請などゆえの成瀬の「迷走」なのだろうか。それとも「自発的/創造的試行錯誤」なのだろうか。その問いは、遺作に当たる次作、そして「成瀬らしい」傑作でもある『乱れ雲』には『女の中にいる他人』『ひき逃げ』の成果が見て取れないだろうか、とも云い換えられるだろう。いや、取りも直さず「映画」とはまず「サスペンス」ではなかったか。もっと作品に即した云い方をしてみよう。「ひき逃げ」というメイン・タイトルの表示された画面へのカッティングや高峰が世の中への絶望を語るシーンから呑み屋で馬鹿騒ぎをしているシーンへのカッティング、その暴力的なまでのキレ、また、車に撥ねられた高峰の息子が立ち上がろうとするさまを見つめる残酷でぶしつけなカメラの視線。これらは果たして「成瀬らしい」のか、「成瀬らしくない」のか。私はその答えを保留するかわりに、またもうひとつ別の問いを立ててみる。そもそも成瀬巳喜男の映画とは、そのような「らしい」「らしくない」の二項対立を無効化するところの諸力が錯綜する複雑な力学の場ではなかったか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。