[コメント] ノクターナル・アニマルズ(2016/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
エドワードの小説内で主人公の妻子の遺体が発見される場面に至ったとき、スーザンは思わず愛娘に電話をかける。かつてはエドワードの「繊細さ」に惹かれながらも母の予言通りに彼の「弱さ」に我慢ならなくなって一方的に別れたスーザンが、自らの「弱さ」に直面させられるという復讐。だが彼女は自分が復讐されたとも気づかず、ただエドワードの小説の迫力に圧倒され魅入られている。
電話した先の娘は、小説内の遺体と同じように横たわっているが、小説内では母娘が並んで横たえられていたのに対し、スーザンの娘は恋人とベッドに横たわっているという皮肉。こうした描写にも見られる、スーザンの主観と他者との行き違いが、ラストでの、再会の約束の裏切りによって、スーザンにとっても観客にとっても、決定的な現実として示される。
スーザンが、勤め先の美術館で、「REVENGE(復讐)」と画面いっぱいに書かれた作品に目をとめて、部下の女から、それはあなたが依然購入した作品ですよと指摘される。「REVENGE」を買ったことを忘れていたスーザン。部下は自分のスマホを差し出して、自分の赤ん坊が寝ているのをリアルタイムで撮っている映像をスーザンに見せるが、そこに突如ホラー映画のように、小説内の「Animals」の一人が顔を覗かせて彼女を驚かす。床に落ちたスマホの画面にヒビが入る。これは、別れのあとに自分の子を密かに堕胎されたエドワードからの復讐のメッセージともとれる場面だが、観ているこちらもそのことに後から気づかされる。回想シーン、小説内シーンと交錯する現在パートのエドワードは、小説の原稿とメールの文面という文字としてしか存在を示さず、ほとんど沈黙と不在のうちに、観客にさえ気づかれないほど静かに復讐を進行させていた。
小説の主人公が最後の最後に自ら妻子の復讐を果たすことになるAnimalは、娘がバカにした態度をとったのが悪いんだ、相手が俺を強姦魔だと言うなら強姦魔になってやる、と言う。これと対照的であり、また同時に或る種の同類とも思えるのが、この主人公とエドワード。この二役を演じるのがジェイク・ギレンホール。彼はスーザンや乱暴者たちから「弱さ」を指摘されたことで逆に強く振る舞うことになる。彼も強姦男も、相手の言葉に触発されて、逆に相手の望まない自分になるという仕返し(REVENGE)をするのだ。ギレンホールは強姦男を殺し、スーザンのことは裏切る。強い男としてそう振る舞う。スーザンが愛した繊細なエドワードは、小説の主人公と共に死んだのだと示すように。
登場人物たちは互いを規定し合う。「軽蔑すべき奴ら」「獲物」「罰されるべき存在」「弱い」「愛する娘」「母に似た娘」等々と。彼・彼女らは、他者からの言葉に抗い、囚われ、すり抜け、従う振りをして裏切ったりする。確かに、肉体的な暴力が印象づけられる映画ではある。或る意味では冒頭の肥満女性のヌードダンスも、醜を美のように誇示するその振る舞いが一種の暴力と言えなくもない。だが、その弛んだ皮膚がぶよぶよと乱舞するさまが「アート」という言葉で美として振る舞うように、暴力は言葉の内にこそ宿っている。
あの夜のハイウェイでの乱暴者どもでさえ、言葉で徐々に主人公を追いつめていた。車をぶつけて事故ったのはそっちだぞ、俺らを悪者扱いしてバカにしたのはそっちだぞ、と。その言葉に従ったせいで妻子を失ったことを、主人公は刑事の前で悔やむことになる。彼が最終的に自ら手を汚す復讐は、だが、小説内の出来事であり、それを書いたエドワードによる復讐も含めて、肥満女性ヌードダンスの如き、「暴力的表現」による復讐なのだ。現実にはエドワードは誰も殺していない。スーザンが、彼の子供を殺した。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。