[コメント] ジーザス・クライスト・スーパースター(1973/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭、イスラエルと思しき荒地にバスで乗り着け、舞台を展開していくヒッピー達。『ベン・ハー』で、ベン・ハー(劇中では「ユダ」と呼ばれていた)が「愛と平和か(love & peace)」と軽蔑的に口にする台詞があったのを思い出してしまったけど、イエス・キリストの存在感と説得力は、この『ジーザス・クライスト・スーパースター』が遥かに、遥かに、凌駕している。
岩と石ばかりの荒地で歌い踊るヒッピー達の姿は違和感満点で、最初は何かの冗談にしか見えない。ピンクの派手な衣裳に身を包んだアフロヘアの黒人が演ずるユダが岩山の上で披露する歌はカッコイイのだが、イエスが皆に取り囲まれ、彼を称える歌声の輪の中で笑っていると、歌詞に「ジーザス、私の為に死んで」というフレーズが出て来、きょとんとしたイエスの顔のクローズアップで画面が静止した所などは、正直、吹いた。今思い出しても笑えてくる。イエスの事を警戒する軍人が、批難しているくせに「だがこれだけは言える、あいつはクールだ」と言う唐突さ。イエスの前で何もそこまでと思うハイテンションで歌って踊る弟子のシモンと、イエスのクールな立ち姿との温度差。ローマの兵隊が工事現場の作業員か何かにしか見えない事。祈りの場である神殿で開かれた市場を破壊するイエス、という聖書にもある場面での、並んで掛けられたコートや機関銃を、古代の衣服を着たイエスが押し倒すという絵面のシュールさ等々、ハイテンションなミュージカルと地味な物語の並立、古代と現代の混在が生む違和感は、最初の内はどうしても笑いたくなる方へ気持ちがくすぐられてしまう。
だが徐々に、悩めるスーパースターとしてのイエス像が浮き彫りになるにつれて、強烈に感情が沸き立たせられてしまう。白い布に身を包んで信者達や周りの風景に溶け込んでしまうイエスと、ピンクの衣裳が全てから浮いているユダの対比。そのユダが「一番弟子の俺の話を聞いてくれ」「かつては貴方を信じていたが、今の貴方は変わってしまった」と訴える様子は、まるで「インディーズの頃から応援していたけど、最近、ちょっと違ってきてねぇか?」と不満を漏らす古参のファン、或いは方向性の違いから脱退するバンド・メンバーのよう。「目が見えません」「口が利けない」「脚が動かない」などと言って押し寄せてくる悩める者たちに向かって「数が多すぎる」と困惑するイエスの姿も、ロックシンガーが、メンヘラーからの人生相談やらチャリティーを求める夥しい手紙などに押し潰されそうになる様を連想させる。
そしてイエスが漏らす、「たった三年間の活動だったが、三十年にも思える」という疲労感。三年くらいの活動で夭折して伝説になったロックスターもいますからね。そして自らの死を予感したイエスは、天の神に向かって「かつては霊感に恵まれていたのに」とスランプを打ち明け、「なぜ私を死なせるのです?それで私の事がより広く知られるからですか?」と、ジャニス・ジョプリンやカート・コバーンやジミ・ヘンドリクスの台詞かと思うような言葉を吐く。イエスが「神よ(LORD)」と呼びかける台詞を聞いて僕は、ジム・モリソンが『THE LORDS』という詩集を出していた事を連想せずにいられない。今、名前を挙げた四人はいずれも早死にした事で伝説化されてしまった面があるのだ。この神への訴えのシーンで、キリスト磔刑図の数々が引用され、やはり彼の死がその名を高めたのだという残酷な事実を観客に突きつける。
使徒達が「努力すれば報われる。引退したら福音書を書こう。後世に名が知られるだろう」と歌う所など、バンドのメンバー達が「引退したら回想録でも書いて一儲けすっか」と獲らぬ狸の皮算用をしているようにしか見えず、イエスの実像は使徒達が書いた福音書でしか知られないのに、実は福音書の記述にはなぜか異同がある、という話をも、皮肉な気持ちで思い出してしまう。そんな呑気な連中がグーグー眠っている姿を見てイエスは嘆き、「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ」と呼びかけるが、耳に聞こえるその台詞は「ピーター、ジョン、ジェームズ」。普通はイエスの伝記物を英語で演じているのを観るとどこか違和感があるものだが、この映画の場合はむしろ英語である事が効果を上げている。結局はローマ軍に捕まるイエスは、目を覚ました使徒達がイエスを守ろうとする、というか、守ろうと言うのに対して「お前ら肝心な時に寝てただろ…もういいよ今さら」とでもいった調子で素直に連行されていく。裁判に向かうイエスを取り囲む民衆は、スキャンダルの渦中にいるスターに押し寄せる取材陣のように描かれている。
裏切り者ユダの描き方もなかなか捻ってある。序盤の場面で、イエスに香油を塗るマグダラのマリアに向かってユダは「そんな高価な油を使う金があるなら、貧しい者達に恵んでやれよ」と、結構尤もな意見を吐く(聖書では、「だが、彼は皆の金を盗んでいたのだ」と書かれてあるが、勿論、その福音書は他のメンバー、もとい、使徒が書いたもの。この作品では意図的に外したのではないか?)。だが、イエスを売る時、「報奨金の為じゃない」と言いながらも、軍人達に「卑しい金ではない。恵まれない者達に施してやればいい」と言われて、結局は金をその手にするのだ。その行為が、イエスの命を差し出す結果となった事を知ったユダは、金をぶちまけた後、自らの首を括るが、その時、あの派手な衣裳を脱いで上半身裸となる。その時に彼は何と口にするか。「神が俺にこの役回りをさせたんだ」。まっピンクで浮いた存在だったユダも、やはり神の劇の一部に過ぎなかった訳だ。ユダが、イエスへの口づけを合図にしてローマ人にイエスを売った話は、聖書を読んだ事もない人間でも知っている有名な話だが、僕はもう、一方的にイエスにたかる信者=ファンの群れが「私に触れて」「私にキスして」と歌いまくる場面から脳裏に暗雲が立ち込めてきた。そして、ユダがキスした時にイエスが口にする台詞が、「それがお前の裏切りの合図か」。親愛の情を示す行為が裏切りになるという逆説。一方的で熱狂的な愛情が時に凶器に変わるという構図を、聖書のエピソードに重ねるという、非常に戦略的な脚本だと感じさせられる。
実際、この映画は、ローマ人がイエスを批難する言葉すら、イエスを称える歌を側面から盛り上げる伴奏になる反面、イエスを称える歌が彼を十字架へと送る事にもなる。歓声もブーイングも共にスーパースターを上へ上へと押し上げる役割を果たし、そして彼を、頂点に立つ者が味わう孤独へと追いやりもするのだ。
イエスの事を唯一人、完全に一個人として愛していたマグダラのマリアが、眠るイエスの傍で「close eye,close eye...」と歌い出す曲には、泣かされる。同じく娼婦といえども、さすがにシド・ヴィシャスとナンシーの関係とダブったりはしない。
劇の構成には捻りが利いているが、曲は全て直球勝負なロック(たぶん。ロックに詳しくないのでよく分からないが)。それが、だだっ広くて白い荒地に展開する。舞台版の方は未見だが、映画版が優っているのは、この不思議な空間の創造、そしてその事による、千年以上も前のスーパースターが今のスーパースターと或る面では酷似した運命を辿った事を強烈に印象づける、一種ドキュメンタリー的とも言いたくなる演出効果、これらの点にある筈だ。
イエスを磔にしろと訴える民衆に対してピラトが「彼は罪を犯した訳ではない、自分を過信しすぎただけだ」という言葉は、過剰なバッシングを受けるスーパースターとしてのイエスの姿を浮き彫りにし、現代の日本で暮らす僕にも幾つかの最近のバッシング騒動を連想させるもの。この作品の最も有名な「ジーザス・クライスト、ジーザス・クライスト」で始まる曲は終盤のクライマックスで歌われ、「どうして貴方は犠牲になったの?」とイエスに問う。だがこの「どうして?」という問いは、当のイエス自身が神に問うていたもの。そのイエスは十字架の上で「神よ、彼らをお許し下さい。自分達のしている事が分かっていないのです」と言う。が同時に「どうして私をお見捨てになったのです?」とも言う。両方とも聖書にある言葉だが、この最後の台詞がそのままイエスの運命と神の意図を問うものとして位置付けられているという点で、また、それを「スーパースター」という現代的な概念に置き換えたという意味で、この映画は、他のキリスト教映画にはなかなか見られない種類のリアリズムが漲っている。「貴方は聖書通りの人?」と問うこの映画は、単純なキリスト教のPR映画ではない。
音楽と神を描いた作品として、『アマデウス』にすら比肩し得る映画――と、敢えて言っておこう。と言うか、イエス・キリストを扱った脚本としては、かなり頭を使って書いた方だとは言えないか?どうも向こうの人は、イエスが偉いのは当然の前提で書く事が多いせいで、言っている事に説得力が無く、「イエスを一個の人間として描いた」とも言われるマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』やらメル・ギブソンの『パッション』やらも出来はもう一つだったように思う。この映画、ヒッピー達がはしゃいで作ったお気楽な作品だと思って、ナメて観てはいけない。キリストのリバイバル、ないしはカヴァーとしては、なかなか悪くないアレンジだろう。
砂漠でうな垂れるユダの所へ、戦車が押し寄せ、イエスを売ったユダの頭上を戦闘機が飛んでいく場面の唐突さや、ユダがイエスに「あんたが巧くやってくれたら俺はこんな事をせずに済んだ」と詰って走り去る場面での、羊の群れにユダが混じって走る姿など、映画でしか出来ないシュールな画面作りにも工夫が見られて良い。十字架にかけられたイエスにクローズアップするショットでは、太陽の光がカメラに当たってイエスの顔が見えなくなるのを、イエスが死に瀕した状況の演出に巧く利用している。ヘロデの、必要以上に陽気でファンキーなキャラ造形など、話がシリアスになってもギリギリまでユーモアを忘れない精神も楽しい。
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