[コメント] 港町(2018/日=米)
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尋ねもしないのに近所の噂話を喋り倒し、漁師のお爺さんと仲良さそうなのに陰であいつは嫌いだと囁くこのお婆さん。いつも路上にいる。孤独なのだ。一緒にいる寡黙な白髪のお婆さんとのコンビも何か絶妙なものがある。彼女の家庭の事情も(本人がいるのに)あからさまにされる。同じフレーズを何度も繰り返すのも疎んじられる老人特有の話法だ。
息子を取られて自殺しようとした、と語る。この情報は一方的である。彼女には子供を育てる能力がないと判定されて、子供は福祉事務所に保護されたのじゃないかと想像される。しかし重要なのは、彼女に何がしかの欠陥があろうとも、彼女の哀しみは本物だ、ということだ。辛抱強い撮影とともに、作者はそう云いたいのだと伝わってくる。この人を嫌がっちゃいけない、と。
ああ、他者とはこういう人だよなあ、というリアリティがある。思い込みだけで語られる彼女の言説に信憑性のないこと、このこと自体が、この世界のどうしようもなさを露呈する。劇映画なら彼女の来歴を奇麗に整理するところだろう。何のフォローもしない本作の物語拒否の身振りは際立っている。「路上観察」という禁欲的な方法論は伊達じゃない。煙たがられるタイプであるこのお婆さんを理解しようと近づく人は滅多にいないだろう。そのように人と人は繋がれず孤立し続けるんだ。
前半のワイズマン好みの漁、競り、魚屋の捌き、そして販売へ至る一連の過程の綿密な記録が、猫への餌やり、そして墓掃除へと横滑りする展開もまた素晴らしい。地元に根付いた魚屋のお婆さん、余所者なのだろう猫に餌やりする関東弁のお婆さん、墓掃除の孤高な印象のお婆さんと、色んなお婆さんが連なる。町の穏やかな表情が捉えられるとともに、後半のお婆さんふたりと巧みに対照されている。何というクレバーな映画だろう。
漁業については一言云いたくなる。魚を自然の贈与と呼ぶのなら、なぜ贈与が減ってしまうのか、贈与に相応しい宗教的な感謝が欠けているのではないのか、と思う。日本の漁村の成り立ち自体に欠けている。それを回避して漁業が駄目になったと嘆くのは我儘というものではないか。そんな欠落も映画は気づかせてくれる。
本作には子供が全く登場せず、代わりに野良猫が老人たちに慈しまれる。切ないが、充実した世界があった。転べと云われて転ぶ猫のユーモラスなアクションが印象に残る。
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