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[コメント] 凱里ブルース(2015/中国)

貴州は未踏だが、孟族の国は越中国境で馴染みがある。峰巒重畳たる低山の風景、坂と階段の多い町、崖際や山裾の高低を活かした建築など目を楽しませる被写体が多い。伝奇のリアルへの蚕食、騙し絵的な背景幕、滴・蒸気・汽笛の魔術的な表現、無意識にそよめく囃子声、絵巻物のようにパンするカメラ、個々の背中を追って町の動脈を行き来する移動撮影、譫言のような詩の朗読など先人の影響は明らかだが、病みつきになる魅力がある
袋のうさぎ

金剛経の引用にある通り、これは個よりも、場のこころ(老子風にいえば時空の範疇を超えた<道>)の映画なのだろう。

仏教だけでなく、老荘思想の影響が色濃く感じられる言葉やイマージュも、そこかしこに瞥見。

「頭がボーッとして・・・何だか遠い世界にいるような気がして・・・そのまま押し流されて・・・関節がゆるみ、しゃんとしてられず・・・布人形みたいに体がぐにゃぐにゃになってしまったような感じ」が全編に行き渡っており、「現在は過去を駆逐するにいたらず、過去も現在も、そしておそらく未来さえ、ここではすべてが一時に存在している。過ぎた時代を思わせるものがあるかと思えば、いわば将来の出来事を思わせるもの」さえあり、あげくは意識の個体差も融解してしまって、眠気の茂みに静かに包み込まれてゆく感覚が圧倒的。

ちなみに、冒頭近くでその一部が引用されている金剛般若経第19節の中村・紀野訳は以下の通り(オンラインにアップされているのは、18節までしか見当たらなかったため、覚書としてメモっておきます)。

須菩提よ 意においていかに。 一恒河の中のあらゆる沙の如き、 かくの如きに等しき恒河有り。 このもろもろの恒河のあらゆる沙の数仏の世界あらんに、 かくの如きを寧ろ多しとなすやいなや。 甚だ多し、世尊よ。

仏、須菩提に告げたもう、 そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、 如来は悉く知る。 何を以ての故に。 如来はもろもろの心を説きて、 皆非心となせばなり。 これを名づけて心となす。 ゆえはいかに。 須菩提よ 過去心も不可得、 現在心も不可得、 未来心も不可得なればなり。

須菩提よ 意においていかに。 もし人有りて、 三千大千世界を満たすに七宝をもってし、 もって布施せんに、 この人は、 この因縁を以て福を得ること多きやいなや。 かくのごとし、 世尊よ、 この人はこの因縁を以て福を得ること甚だ多し。

9/10

*****追記*****

一、二度見ただけでは気づなかったが、鑑賞後何か月もたって、不意に、<単なる仕事のパートナーにとどまらない親密な間柄にあるクリニックのおばさん⇒苦労ばかりして死んでしまった母親/鎮遠県の村で出会う美容師の女性⇒これまた苦労ばかりして病死した妻/甥っ子の衛衛⇒同じく鎮遠県の村でお世話になるバイタク少年⇒自分の不甲斐なさのために日の目を見なかった子供>という三つ巴の代理関係が成立することに思い至った。私みたいなぼんやりさんでない視聴者にすれば、自明の構造だったかもしれないが・・・ここで、親子三代の絆が、個々の身体性に宿る命運を超えた永遠普遍な原理であることを仄めかす先述の金剛経のことばが思い出される(といっても、三世代の紐帯は必ずしも肉親のものである必要はなく、この映画にも見られるように他者による代理関係でその欠落・破損は補填・再生されるのだ)。やはり、この映画も、アピチャッポンやホンサンスを経由して、同じ創造の源泉まで遡れそうだ。

(評価:★5)

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