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[コメント] GODZILLA 星を喰う者(2018/日)

怪獣禅問答。もはや活劇であることをやめ、場面を転がすことさえ放棄し、ただ夢想したテーマを好き放題に垂れ流すだけなら、脚本家の仕事とは何なのかと思う。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 メカゴジラ・シティ(ナノメタル)への同化によるゴジラ打倒をユウコへの私情から放棄したハルオはもはや完全に戦力を失い、必然的にゴジラ打倒を諦めかける。ナノメタルに喰われかけたユウコは脳死状態に陥り、もはや回復しない。そういったすべての犠牲に報いることができなかった自責から、ハルオは今度こそ絶望の淵に佇む。そこへ満を持して忍び寄ってきたのは、メトフィエスによるエクシフの福音だった。宇宙にあまねくどんな知的生命体による文明の営みもいつしか訪れる破滅の運命を免れえない。永遠の繁栄は無く、残されるのは苦しみのみ。これは地球人類が遙か及ばないエクシフのゲマトロン演算が数学的に帰結した絶対的真理であって、滅び行く我らにとって唯一の救いは我らの科学を遙かに凌駕する高次の存在に自らを供物として捧げることだ。地球のテクノロジーが熟れすぎてゴジラという怪獣を生み出した。遙か二万年の時を越えてゴジラは人類に取って代わり生態系の頂点となった。地球人類は自らの軍事力と価値観を以てこれを打倒することが叶わず、ビルサルドのテクノロジー=メカゴジラ・シティに同化することによって自らがゴジラを越える怪獣となることもできなかった。地球人類と文明は長い長い放浪の果てに、いよいよ行き着くところまで行き着いて自らの限界を知った。ゴジラは躊躇無くメカゴジラ=テクノロジーの残り火を吹き消した。彼は科学の暴走が生んだ副産物などではなく、ひとつの文明が熟れきって産み落とした果実だったのだ。地球人類にとって唯一の救いは自らと自らの星とともに、この熟れきった最大の供物をさらに高次元の存在、つまりは全宇宙の神とも言えるギドラに、自らの意志によって差し出すことである。この帰依によって自身を母性もろともギドラに捧げたエクシフは、メトフィエスらが放浪の伝道師となって地球のような文明の星を見つけては寄り添い、時が満ちる=怪獣を生み出すのを待つ。そして文明を生んだ知的生命体が心からギドラに帰依するのを促す。今や地球の精神を代弁する存在となったハルオのゴジラをめぐる逡巡こそ物語の主軸にほかならなかったのである。

 三本を見終えてようやく知り得たこととしては、誤ったようにも不足しているようにも見えた前二作のすべては、是が非かはともかくとして、実に一貫していたということだ。これはかなり驚くべきことであるように思える。そもそも映画というのはSFのテーマを突き詰めるにはいささか忙しいメディアであって、テーマを語りすぎれば活劇が止まり、自らをエンターテイメントとして立たせることができない。『シン・ゴジラ』はうまくやったほうであって、それにくらべるとアニゴジはしくじっているかのように見えた。しかし、この三本目にして結末まで見切ってわかったことには、この映画は自らをエンターテイメントとして立たせることを端から放棄し、テーマを語りきる気でいたのである。その辺り、テーマと構造の詳細に関しては、拙文なんかより下記の評などがよろしいかと思う。

GODZILLA 星を喰う者 レビュー By 藤田直哉氏 https://jp.ign.com/godzilla-3/30773/review/godzilla

 それにしても、このご時世に企画がそっちに倒した、あるいは倒すことを許されたというのは何とも不思議なのだけれど、パンフレットの対談を見ると、それは当の虚淵玄氏にとっても意外だったようだ。このクラスのバジェットをゆだねられる職業脚本家であれば、ゴジラ・クラスの企画で、かつての押井守的会話劇ならぬメトフィエスの独白劇を簡単に許されるとは思っていない。最終的にどう変質を迫られたとしても覚悟はしていたはずだ。ところが脚本はテーマに尺を割ききることを許され、演出はそれを謳いきることに徹してしまった。その顕著な例がまさにゴジラVSギドラの何ともつまらない顛末だ。次元の狭間から一方的な遠隔操作をかましてくるギドラ(というか、おまえはマンダか、ナースか、極大のチン・アナゴだろ!)に図体ばかりでかくなったゴジラ・アースは手も足も出ず、あわれ要介護老人のようにリフトアップされてもう見ちゃらんないのだけれど、本当にあきれたのはその後だ。いざ次元の呪縛から解き放たれたら、そこはおまえ……ギドラはめくるめく実体化して翼がドギャーン! 若林映子様が降臨して「キング・ギドラ…」と囁くか、せめて新山千春が這い出てきて「千年竜王…」とつぶやくのを皮切りに今度こそ超絶肉弾バトルだろうがっ!! というような欲求不満を私も何度となく吐いてきたのだけれど、このシリーズはやらないと決めてやらなかったのである。ハルオがメトフィエスの目をつぶすと、ギドラはゴジラがぶんなぐるまでもなく自壊していく。なぜならギドラはゴジラによって倒されたのではなく、ハルオによって拒絶されたのだ。そのあたりを固守して、おっぱいポロリさえ見せないストイックは、ユウコがサイボーグ・ユウコになってねんねしているメカゴジラをたたき起こすこともなければ、モスラの卵が孵ることもない。モスラは孵ることなくフツワの精神たり続け、ユウコは脳死のまま帰らない。フツアの少女は恋愛感情からではなく、「ゴジラにあらがわず、命をつなぐことこそ勝利」というフツワの信念に基づいてハルオと交わろうとする。ユウコへの悔恨から最初は彼女を抱けなかったハルオもこの信念を理解して最後は彼女の腹に子種を残し、自らはメカゴジラを復活させうるユウコの残骸を抱え、ゴジラに突っ込んでいく。かつてのような怒りや復讐ではなく、ただゴジラとフツワの均衡によってもたらされた春と未来を守るため、ユウコとメカゴジラそして自分自身という過去を葬り去って物語は幕を閉じる。

 この結末は、「芹沢大助」とリンクしてもしなくても、心揺さぶられるものだった。いらだたしいばかりだったプロットのすべてが腑に落ちた。死も自決も命の否定ではない。どんな状況にあっても何かを重んじて生きたいように、何かに殉じて死んでいきたい。それを体現した物語はハルオの物語であって、ゴジラがフレームの中心にいないことが多く、ご機嫌な大暴れも見せてはくれないのだけれど、それでもハルオは鏡となってゴジラを映し続け、ユウコはメカゴジラを映し、フツワはモスラを映し、メトフィエスはギドラを映した。それぞれのシルエットが壊れて、内包するテーマだけが陽炎のように揺れて見えた。

 着ぐるみという形骸にすぎなかったはずの怪獣に我々好き者はあまたを夢想してきたわけだけれども、共有していたのは「何でこの怪獣は生まれたのか」「どうして人類はこの怪獣に生み出すに至ったのか」を、映画それぞれが内包する物語さえ越え、ときに現実と重ね合わせて想うことだった。引いては、世界の終わりを、人類の文明の行き着く先をぼんやりと考えることだった。それぞれのものでしかなかったはずの夢想のうち、ひとつぐらいがこうして時代を越えて果実を結んだのであれば、私は喜んで穫り取り頬張りたい。

 門外漢の伊達酔狂によって立ち上げられた企画でもないことは『怪獣黙示録』と『プロジェクト・メカゴジラ』を読んでわかっていた。ともあれテーマを完結したって観客は振り向かない。人々が気にするのは人類文明の行く先などではなく、今宵自分のガラクタがメルカリで売れるかどうかなのだとすれば、こんな怪獣禅問答が広く受け入れられる道理もない。90年代には平気で玩具にした東宝がどうしてこれをやったのだろう? パンフの最後に出ていたギドラのソフビはおよそ子供の目を引く代物ではない。不思議だ。『シン・ゴジラ』は庵野秀明の作家性ばかりが語られるのだけれど、あの映画の本質はプロットを書いた神山健治が第二形態に翼をつけて飛ばそうとし、庵野秀明が第四形態の首を八つに割ろうとした奔放をゴジラの鋳型がそぎ落としていく過程にこそあった。才能たちを型にはめて、銘々のオリジナル作品以上の実を結ばせたのは紛れもなくゴジラ自身だった。その鋳型とは、東宝が――富山省吾がゴジラを映画として立てきれずに玩具に貶め、もはや形骸と言われながら、それでも頑なに守り続けてきたゴジラの輪郭だった。そう、ゴジラは輪郭として残り続けてきた。初代の本質はもう60年代には消え失せていた。消え失せた空洞に時代を吸い込んでは復活を繰り返してきた。『シン・ゴジラ』の商業的成功があって、レジェンダリーがチャンピオンまつりの極大復刻を打ち続ける狭間で、こんなふうにアニメ三部作で精神性を語りきっておこうとは何とも贅沢な話だが、ここでそれをやっておくのもひとつと考える見識がバトンを受け継いだ現在のスタッフにはあるのかもしれない。

 時は流れる。ミレニアム・シリーズの時期に勃興したこのシネスケも、当時はゴジラともなれば世情に反してコメントがあふれたというのに、そういったシネマ極道の方々も今やアニゴジなんかにつきあっている暇はないようで。検索しても見つからずのセルフ登録はこの一年で二回目のナイス・ボランティア。どうせ読まれやしないので、ブーツをぬいでくつろいでしまう。そんな私なんぞ、ふだんは貧乏暇無しで二時間空けるのにも四苦八苦。たまの有休に何を見るかと言えば、結局ゴジラにロッキーである。『若女将』とか見たかったなと思うし、『ボヘミアン・ラプソディ』も楽しそうだなと思うが、それでもゴジラにへばりつくわたくしのアレな姿は端から見ればさぞかし滑稽に、それこそゴジラ教にでも見えるかもしれませんね。ともあれわたくし、『この世界の片隅に』辺りのよほどクリティカルな代物まで見逃してはいないのです。『スリー・ビルボード』レベルなら「まあ良かったね」ぐらい思っても、べつに見なきゃいけんとは思えない。『ムーンライト』なんかたかだか月明りだろ、亜空間ぶっ飛んでみろよ。と思う嗅覚には密かに自信があって、このシリーズもついにはこの『星を喰う者』なんかが出て来たりすると、「ざまあみろ」と思わずにはいられないのであります。(いや、世間様はそう思ってないから。こんなん書いてる暇があったら『ボヘミアン・ラプソディ』でも見に行け)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)荒馬大介 MSRkb

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