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[コメント] ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(2019/米)

本当に1969年を切り取ったのような作品だ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本作の最大特徴は、本当に時間を切り取った感じに作られていると言うこと。主人公二人にとってはそれなりに人生の転機とはなるが、基本路線として劇的な展開はなく、いつものような一日が続くだけの日。ラストはともかく、そんなに大きな出来事は起きてない。

 だけど、本当に実際にそれがあったように思えるリアリティが本作にはある。

 なぜなら“1969年”を再現することこそが本作の最高の目的だから。確かにラストにあるシャロン・テート襲撃事件は実際にあったことだが、それを再現するために、何よりまず1969年の一面を徹底して描いた。

 当時はヴェトナム戦争真っ盛りで、1965年に参戦したアメリカは泥沼のような戦争に嫌気がさしていた。そんな中で起こったのがヒッピーブームで、戦争に嫌悪する若者達が自由を求める運動を始めていた。

 彼らは保守的な文明を嫌いつつ、貪欲にカウンターカルチャーを摂取しつつ、全く新しい価値観を創出しようとした。

 結果、自然回帰の半裸文化と電気的なケバケバしい文化が共生するようになった。ヒッピー文化というのはとにかく矛盾だらけなのだが、その矛盾こそが新しい価値観を作り出してきたのだ。最も熱い時代だからこそ、新たな文化が生じる。そんな時代が1960年代の後半だった。そしてその渦中にいた人たちこそ文化の担い手だった。

 そして映画やテレビはまさにその直撃を受けていた。

 具体的には60年代初頭の映画やテレビ俳優が居場所を失ってしまったということ。古き良き伝統の上に立ったヒーロー達は、カウンターカルチャーの波をモロに受けてしまい、居場所を失ってしまった。まさに本作の主人公リックが味わっている状態である。

 そんな主人公達がまさしく1969年という時代で生き残る道が提示されている。

 それは二つ。国内に残るか、イタリアに渡るか。

 国内に残る場合、当時作られていた低予算のテレビドラマに活路を見いだすこと。オープニング時のリックはその立場だった。

 だがこれは新しく登場するヒーローに道を明け渡す役割しか持たない。過去の栄光にすがって自分を貶めることしか出来なくなるから新たな魅力も出せないし、先細りになるだけだ。

 そんな役ばかりですっかりクサって酒浸りになってたリックだが、途中で起死回生。これまでのヒーローのカウンターではない本物の悪役として開き直ったことで、新しい活路を見いだした。

 もう一つはイタリアに渡ること。1960年代中期からイタリア(およびスペイン)で起こった新たな西部劇の流れは世界で受け入れられるようになっていった。過激な描写と多量の血糊を用いた作風は伝統的な西部劇の世界から亜流とされて嫌われた。アメリカの西部劇スターがマカロニに出ると言うことは、自分のキャリアを捨てることにつながるため、嫌がる人も多かったし、多くのスターは実際に渡伊することを拒否した。

 だが、それを敢えて行った人もいた。

 リックはこの二つを同時に行った人物になるが、この二つは根は一つだ。

 それまでのリックはかつてのヒーローだった自分を捨てることが出来なかった。自分はハリウッドのウエスタンスターであり、そこにしがみつかねばならないと思い続けてきたが、そのプライドを一旦リセットすることで完全に新しい自分になることを決意したことで、役者として生き残ることが出来た。

 だからリックにとってこの映画の舞台となった3日間は、ある種の立ち直りの物語として観る事が出来る。

 リックを中心に物語を考えるならば、それで充分に映画としては成り立つ。

 だが、本作の主人公はもう一人いる。というか作品として中心となってるのはもう一人のクリフの方。これが本作の特徴であり、大変ユニークな点となっている。

 映画スターという顔を持つリックと違ってクリフは複雑である。

 オープニングでは傍若無人なリックに従っている理由はビジネスパートナーとしてだけのものかと思うのだが、徐々に何故クリフはリックから離れられないのかが会話の端々から推測できるように出来ている。

 完全に分かっている訳ではないが、会話の中から推測されるのは、クリフも元は役者志望だったが、非常にプロデューサー受けが悪いこと。役者からも見下げられているのに、それでも媚びないこと。そしてそんなクリフのために尽力しているのがリックだと言うことが分かる。

 それはクリフは過去妻を事故死させたことがあって、それがクリフが殺したという噂があるためらしい。それでも役者を続けているのは、自分のために尽力してくれるリックのためだし(これも推測でしかないが、リックはその真相を知っているためではないかと思える)、ぼやきつつもリックの家政婦のようなことまで続けてる。彼にとっては生きている意味なんてそれだけで良いんだろう。死ぬこと自体をあんまり気にしてないことも分かってくる。

 この描写も三日間という時間軸の中で少しずつ分かってくること。

 更にもう一つ。ここには三人目の主人公が存在する。

 シャロン・テート。実在の女優である。伸び盛りの映画監督ポランスキーと結婚した彼女は毎晩のようにパーティに明け暮れ、日中時間ができると自分の出ている映画がかかってる映画館で自己顕示欲を満たす。決してお友達にはなりたくないような身勝手な描写だが、彼女が時折画面に出ると、観ている側はとても緊張する。何故なら彼女が最後にどうなるかを観てる側は分かってるのだから。

 二日目にクリフが出会ったヒッピー連中がチャールズ・マンソン・ファミリーであることはなんとなく推測できて、彼らがポランスキーの留守中に自宅に押し入り、シャロンを殺害することは歴史的な事実。彼女が馬鹿っぽい行いをすればするほど、観てる側は後のことを先回りして考えてしまい、後に起こるであろう悲劇に身構える。

 この映画で描かれている三日間をまとめてみよう。

 初日は悪役ばかりしか来ないでクサってるリックとそれを宥めるクリフの立場。この時点でリックは典型的な駄目人間で、クリフはよくこんなのに付き合ってると思う。一方、リックのお隣さんであるシャロンは二人のことが眼中になく、夜な夜なのパーティにいそしむ。

 二日目。リックは駄目な自分を反省し、悪役としてでも自分のできる渾身の演技を見せたことで役者人生の新しい段階に入り、これまでアメリカン・スターとして拒否していたイタリアに渡る決意を固める。一方リックと離れたクリフはどれだけ業界人から嫌われているかを強調した後でヒッピーの女の子を拾って危険区域に入ってしまう。一歩間違えれば死につながる綱渡りのような会話を飄々とこなす。ここで本当に精神的に危ういのはリックではなくクリフの方だと気づかされる。そんな中、シャロンは自分が馬鹿っぽい役で出てる映画館に入り、自己顕示欲を満足させる。

 それから半年ほど経過した後の三日目。イタリアでそれなりの成功を収めたリックはクリフに解雇通知を突きつける。これまで共依存状態だったが、自分はもう立ち直ったという確信と共に、クリフにも自由になってほしいという友情から出たものに感じられる。だからクリフもその決定に対してなんの異議もなく受け入れる。

 こう見てみると、何事もないような日常を描いてるように見えて、立派に友情と自立の物語になっているのだ。上手く作られてる。

 更にそこにシャロン・テートが加わるのだが、基本的に彼女は出てるだけで何もしない。最後まで本当に何もしないが、中心であり続けるのは、最後の悲劇のためだった。ところが、その最も重要な三日目の晩。彼女は友人達と自宅でパーティを開いて騒いでるだけである。

 なんとマンソン・ファミリーは家を間違えてリックの自宅に押し入ってしまったのだ。

 結果は推して知るべしだが、マンソン・ファミリーにとっては不幸な出来事になってしまった。まさかこのようなオチが待っていようとは思いもよらず、唖然とさせられた。

 考えてみるとタランティーノは過去イングロリアス・バスターズでモロに歴史改変やってるわけだから、ここでやって悪くない。それに映画史においても、もしこうであれば良かったのに。というものの筆頭なので、映画を愛する人にとっては大変溜飲の下げる展開でもある(火炎放射器はやり過ぎだが)。

 それにこの事件はクリフにとっても大きな転機である。リックから解雇通知を受け、それを素直に受け入れたものの、これまで10年以上も一緒にいたリックから離れて自分の人生が始められるのか?という不安もあっただろうが、この事件で大怪我を負ったことで吹っ切ることが出来たんじゃないだろうか?一度死に近い経験をしたことで生まれ変わって、今度は自分の人生を歩める確信を得たのではないかという思いにもさせられる。

 結果として、本作は二人の男の成長物語になっていることに気づく。タランティーノがこんな作品作るとは思いもしなかった。

(評価:★5)

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