[コメント] あのこは貴族(2020/日)
身分の「格差」は、古くは『天国と地獄』(1963)や、近作では『パラサイト 半地下の家族』(2019)がそうだったように、たいていの映画では上下の関係として位置づけら、視覚的にも住む世界の高低差で描かれたりする。だが、出身地の富山を舞台に作品を書くフェミニスト作家山内マリコの原作は、そんなステレオタイプな手法ではとても描けないほどナイーブなテーマをはらんでいる。
上流家庭育ちの華子(門脇麦)と中流家庭育ちの美紀(水原希子)の社会(経済)的な階層差に、生粋の東京者と地方からの上京者という地域(生活)階層差という視点を加えた関係が、さらに“男なんて放っておけ”とばかりに男女(制度)格差を嘲笑うフェミニズム観で語られる。そんな錯綜するテーマを岨手由貴子監督は声高になることなく、気負わず巧みな視覚(映像)化で物語る。
どこへ行くにもタクシーで移動する華子(門脇麦)にとって、東京の街は車窓の風景としてただ流れ去っていく影でしかない。華子の世界はタクシーの目的地にだけ存在し、その道程に蠢く「庶民の生活」など眼中にないようだ。そんな華子の狭い視野は“結婚”という幸福幻想に支配されている。一方、美紀(水原希子)は努力の末に勝ち取った東京のキャンパスライフで「上流の常識」を垣間見みて、自力だけでは手に入らない“モノ”の存在を知る。美紀の漠然とした幸福幻想は、ささやかとはいえ頼りにしていた親の支えを失うとともに目標も見失う。
そんな二人のさまが、上下の別レイヤーではなく同じ東京の生活者として同一のレイヤー上に存在しながらも交わらないパラレルな世界として、時間をかけて淡々と描かれる。この冷静でリアルな状況の視覚化が効果的だ。
階層は閉ざされているからこそ階層として存在する。制度化された「しきたりや因習」は、階層の高低にかかわらず、閉じられた世界の線路を走っている限り平穏で心地よいものだ。しかし、何かの拍子に線路を踏み外し「しきたりや因習」に矛盾を感じてしまうと、制度が強固であればあるほど息苦しさは増していく。
一流とは言えないがバイオリニストとして海外と日本を行き来する華子の友人、逸子(石橋静河)。地方企業の経営者の娘に収まらず東京で起業を目指す美紀の友人、里英(山下リオ)。二人はそんな息苦しい「しきたりや因習」に見切りをつけて、強固な旧弊の外側に新たな世界を自らの手で作ろうとしている女性として描かれる。私には二人こそがこの物語の主役に見えた。
狡さを狡いと思っていない幸一郎(高良健吾)一族(それは逸子が言うところの女同士を対決させる世の中の元凶だ)など埒外に置き去りにして、それぞれの階層や身分に潜む“罠”の痛みを知った者(女)たちの共感は、階層や身分の温存装置としての「しきたりや因習」という幻想を、ゆっくりだが確実に破壊していくだろう。そのためには、彼女ら4人は上下ではなく同じレイヤーのなかに「いる」存在として描かれなければならなっかたのだ。
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