[コメント] ロッキーVSドラゴ ROCKY IV(2021/米)
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彼はロッキーに王座を譲り渡すも、それ以前にアメリカン・ドリームを果たした、アメリカの象徴とも言える存在なのだが、類い希な成功を収めながらも、豪邸のプールで静かな地獄にあえいでいた……自由主義、資本主義の突端であっというまに消費され、忘れられていくという恐怖に。彼の論理は、聞きようによっては古臭く響くのだが、反芻してみると、自由競争に勝利し、富と名声を手にした者が陥る普遍的な空虚そのものであるように思えてくる。競争相手を打ちのめし、獲たいものを手に入れた……それがこの豪邸とプールなのだが、これがいったい何だというのか? プールもテレビも1週間浸かっていたら、何の価値もないと思えてくる。競争において勝ち取った名声と高揚は、競争の場にあり続けてこそ享受できるのであって、一線を退いたらあとは体のいい墓場。これこそ、当時まだイケイケのアメリカ資本主義が陥っていた病理ではなかったか――なんてことを当時のスタローンが考えていたのかどうかは知らないが、キャラクターを深く掘り下げれば自ずと時代を映し出すのがドラマなのだと思う。意識か無意識かはさておき、私はやはり『ロッキー4』は思想の作品だったように思うのだ。
地獄のプールに浸かっていたアポロ、ロッキーに敗北して引退した彼が、政治に飛びつくくだりには紛う方なきリアリズムがあって、これもう本当に慧眼の賜物だったとしか思えないのだけれども、このときのアポロにとっては明確に個人のビジネス=彼が自己実現を継続するための事業にすぎなかったというのが、記者会見からはけようとした際のトラッシュ・トークをふり返るロッキーとの会話によって明確に伝わってくる。国も政治も出汁にして自己実現し続けなければならない焦燥の裏側は、決して旧時代の神話的ファイター像ではなかった。彼は成功した者にしかわからない檻からただ抜け出すために、避けられない舞台に臨み、その舞台に上がった勝負師としての信念に殉じた……殉じるしかなかった。降参は自己の全否定にほかならなかったからだ。そんな自身を、アポロが「変われない」と予言していたことを覚えておく必要がある。
公開当時、アメリカ万歳映画と侮蔑された本作だが、本作におけるロッキーの戦いはコミッションから見放されるところから始まり、お国の支援は一秒たりとも受けていない。ベルトを返上して臨む試合はもはやプロの試合ではなく、ボクシングでも何でもない。象徴的なのは、スパーリング・パートナーがいないことをあっさり受け入れるくだりだ。リアルに考えれば追い込みのスパーリングほど重要なものはないのだが、このたび挑む相手の練習台になるスパーリング・パートナーなど存在しないことを、ロッキーだけがわかっている。相手は怪物、ボクサーでさえない。トレーニングのカットバックにあって、すべてのアクションがたがいにリンクしながら、スパーリングの有無のみ異なるのだが、ドラゴのスパーリングはスパーリングになっていない。ライオンが檻で捕食しているようなものであって、これ、ぜんぜんドラゴの役に立っていないことを、試合が始まってすぐにドラゴ自身が痛感する――あれは人間じゃない、鉄の塊だ、と。この怪物の孤独は、この再編集に先んじて『クリード2』が脚色したところだけれども、国家の所有物に甘んじていた彼がロッキーとのどつきあいによって自我にめざめるくだりが、本編集でもより鮮明になっている。なるほど、『ロッキーVSドラゴ』……では、ロッキーがドラゴを通じて戦った相手とは、何だったのだろう?
アポロが言った、友達ならタオルは投げるな、と。投げればアポロが命がけで守ろうとしているものを損なうことになる。結局ロッキーは最後までタオルを投げることができず、見殺しにすることになった。アポロが最後までとらわれた何かに、ロッキー自身もとらわれており、ものの数分で自身がドラゴとの記者会見に臨んでしまう。まったく溜めのない編集に若干あわてるが、スタローンからしてみたら必要なことしか入れていないという感覚なのだろう。そこに、イデオロギーはもとより介在している。ソ連の為政者は常にそこにいる。国威発揚。これはと選んだ対象を国を挙げて支援することは、操り人形にすることにほかならない。一方で、アメリカの為政者は姿を見せない。自由主義国家は、個人の決断を尊重しつつも、国益にならなければ自己責任にゆだね、放置だ。何しろちっこいロッキーがあの化け物に敵うとはとても思えない。勝てそうもない馬には賭けないし、自分たちに有利なルールに則らないフィールドなんて認めるわけにいかない。あのイタリアの種馬は勝手にやっているにすぎないという国家の冷遇は、ロッキーにとってアウェイのブーイングよりよほど過酷だ。しかし、だからこそロッキーは戦う――友の言葉を覆すために。アメリカン・ドリームを手にしたはずなのに、気がつくと豪華で空虚な檻に入れられていた。ホームで戦い、承認されるのではなく、檻から飛び出して、相手のフィールドに飛び込み、生きて帰ってきてみせる――それこそがロッキーの戦いだった。
「あんたたちは俺を憎んでいた。だから俺もあんたたちを憎んだ。今夜ここで、ふたりの男が殺し合った。でも二千万人が殺し合うよりましだ。こんな俺だって変わることができた。あんたちも変わった。誰だって変わることができる」
この台詞が奇しくも、ウクライナ戦争の真っ只中に再び聞かれることになろうとは……。もはや言うまでもなく、本作はイデオロギーとともに時代を威風堂々請け負った作品であり、同時に個人がイデオロギーから逸脱してみせることの覚悟と業苦を謳った映画だった。とはいえ当時本作をアメリカ万歳バカ映画と声高に揶揄してしまった方々は、そんなにへこまないでいただきたい。何しろオリジナルにはレーガンもすっかりだまされて、ホワイトハウスで試写を開いちゃったわけだし、当のスタローン自身が「俺、アホだった。すまんかった」と言っている。俺だって今見たら、あれ……コメントがない。気に入らなくて消したのかもよく思い出せないが、絶賛が非常に難儀なオリジナルだったことは確かですね。。
なお付け加えておきたいこととして、エイドリアンは映画史に輝く魅力的な恋人にして奥さんなんだけど、この編集だと子供放ったらかしてきちゃったみたいに見えちゃうな。あと、クリード夫人とのあいだには重い交錯があったはずだけれども、それは『クリード』を待つことになる。本作において実は国家と袂を分かったロッキーは、これまた愚作と名高い『ロッキー5』にあって、極めて必然的に富を失い、もう一つの「ホーム」であるところのフィラデルフィアにもどり、作品はこれまた必然的に「家族」というテーマと向き合っている。
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