コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ONODA 一万夜を越えて(2021/仏=独=ベルギー=伊=日)

小野田氏発見当時、日本人たちが美談に仕立てた「信念の人」という幻想に組することなく「弱いからこその過激な頑なさと」という人間の普遍を描こうとした志がいい。青年期と壮年期を別の俳優が演じる演出も「時の流れと、その悲愴」を象徴してとても効果的だった。
ぽんしゅう

小野田寛郎氏がルバング島で発見され帰国したとき、私は十代だった。私の親世代は彼を「信念の人」「日本兵の鏡」「エリート中のエリート兵」と、30年前に封印したはずの“戦中派の自尊心”を取り戻し「最後の日本兵」に重ねて自分のことのように称え(合っ)ていたのを覚えている。もしこの映画が日本人の手による小野田氏の「伝記映画」だったら、少なからずそんな“自尊心の気配”を(肯定するにせよ否定するにせよ)残した物語になっていたかもしれない。40歳のフランス人監督アルチュール・アラリに当然、そんな復古ファンタジー志向があるはずもない。アラリ監督は「小野田という名の不思議な日本兵」を客観的に見つめることで、彼を題材に使った「人間の弱さについて」の物語を描く。

それは小野田の青年期を演じる遠藤雄弥と壮年期役の津田寛治の見事な対比によって表現される。大きな挫折を経験し自暴自棄になっていた二十代の小野田(遠藤雄弥)は、中野学校の教官(イッセー尾形)による徹底的な洗脳(『フルメタル・ジャケット』を思い出す)によって「たったひとつの真実と信念」という閉じられた世界に封じ込めらることで人間の弱さを克服する。その血気にはやる無私の強引さを遠藤雄弥は好演する。一方、30年後の壮年期の寡黙な小野田(津田寛治)は不気味なほど精悍な顔貌をしている。それは、小野田の“強さ”ではなく、むしろ“弱さ”を克服するために自身が(勝手に)作りだした戦場で、アメリカではなくいつの間にか「時の流れ」という壮大な敵を相手にしてしまった男の忘我が生んだ虚無の風貌だ。そういえば、三里塚闘争を闘った過激派と呼ばれた学生たちの50年後を描いた『三里塚のイカロス』に登場する活動家たちも同じような雰囲気を漂わせていた。

戦争やテロルは「勇気」や「正義」や「信念」といった人の強さで戦うのではなく、人の弱さを「勇気」や「正義」や「信念」という幻想で隠し封じ込めることで遂行されるのだろう。そんなことを考えた。

30年間の戦争パートをはさむように、映画の冒頭と最後に小野田と日本人青年(仲野太賀)が出会う現代パートが描かれる。戦争パートよりも現代パートの方が、時間がゆっくりと進む感覚で編集がなされている気がした。その細やかなテンポ配分に、「時の流れ」と戦った男の悲愴を癒そうとするかのような、アルチュール・アラリ監督の優しさを感じた。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。