[コメント] 僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46(2020/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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つまるところ、平手は「プロのアイドル」になれなかったパフォーマーまたはアーティストなのだろう。この場合のプロとは、クライアントやスポンサーの注文に対し、「契約書どおりの職責を果たす人」という意味のそれだ。
それは単に、グラビアで水着になるとか(最初期の頃は平手も水着を披露している)、握手会でCDを売るとか(爆弾で殺されかけるまでは出ていた)、バラエティで愛嬌を振りまく、いわゆる女性を売るとかという卑小なレベルに限らない。その日の気分の状態がどうであれ、楽しい曲は楽しく、悲しい曲は悲しく演じる、それもプロアイドルの仕事だが、平手はそれが苦手なタイプだった。周囲とうまくやっていけない「僕」という歌詞の主人公(欅坂の楽曲の歌詞の大半の一人称は「僕」である)の内面に徹底的に寄り添い(もっと言ってしまえば憑依させ)、「今日は僕に会えた」「今日は会えなかった」と言ってパフォーマンスしていたらしい。なので、嵌った時のパフォーマンスはまさに神がかりで、これを眼前で見せられたら、それが「プロとしては間違ったやり方」だとしても表現者としてこれを否定することはできなかったのだろう。この作品での「ガラスを割れ」(平手が興奮のあまりリハーサルを無視してステージから転落する事故を起こす。このことは作品中にTAKAHIROが「それはダメだ」と平手に注意したと言及している)や「不協和音」などで見ることができるが、平手に煽られて他のメンバーもトランス状態に陥っている。最高のパフォーマンスの波がきたらそれに乗らないパーフォーマーは存在し得ない。そしてそれはメンバーだけでなくスタッフも同様だ。欅坂は良くも悪くもその平手を受け入れるグループとなることに舵を切る。そのことは、単に気分が乗らないと仕事ができない、というわがまま娘の物言いというような単純な話ではなく、肉体的にも精神的にも「アイドルとして」は愚か「プロアーティスト」としてのローテーションで作品を出せなくなることを意味した。平手は何よりそのことに「仲間に迷惑をかける」ことに苦しみ自分をひたすら追い詰めていくのだ(あくまでも「仲間」に対してで「スタッフ」ではそれほどではなかったのだとは思うが…)。しかしそれは平手で行く、と決めたこのグループの宿命だった。
マイクから拾ったままの加工をしていないライブでの歌声の呼吸音や音程の乱れの生々しさは特筆ものだった。また、ロビーのソファーでぐったりと寝ている平手の側を、まさに「恐る恐る」通り過ぎるメンバーや、「黒い羊」のMVの撮影後に精魂尽き果てて倒れる平手に、感極まってすがりつくメンバーや、冷たく見下ろしているメンバー(おそらくこの子は平手のような、プロとしては違うんじゃないか、というアプローチスタイルに否定的なメンバーなのだ)もいるというような映像が見られて、そのメンバーの人柄と重ね合わせていろいろと納得のいくことが多かった。このような特殊なグループアイドルの誕生から崩壊までの始末記は、私のようなファンには面白かったが、そうでない人にはどう感じられただろうか。
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