[コメント] 国宝(2025/日)
歌舞伎のシーンは見ごたえあり。でも「美の追求という狂気」というテーマを語るに、「血のある人間」と「血のない人間」のドラマが未消化というか余計な感じがした。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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場末の貧乏宿で万菊が「ここには美しいものが一切ないからホッとする」みたいな台詞を吐くが、これこそがラストの鷺娘を踊る喜久雄の到達した心境につながるものであり、喜久雄と俊介が稽古中に「いつも誰かが見ている気がする」という視線の在り処につながるものであり、タイトル「国宝」につながるものであり、芸妓の娘でカメラマンになった女性の「多くの犠牲の上に成り上がった」云々という台詞につながるもので一貫しているのに、ドラマを盛り上げているのが喜久雄と俊介の(血筋の)葛藤であるというのが、なんか繋がっていない気がする。
そんなものはないのかも知れないが、喜久雄と俊介の「美」の感覚や考え方の違いとか、幼少の頃みた万菊の舞のどこに惹かれていて、どっちが鷺娘をより良く表現できたのか、とか、それができうれば「血」のあるなしとも関わってくればドラマとテーマはもっと融合しただろうと思う。歌舞伎という、型の表現を突き詰める芸術にそんな差異はないのだろう、とまた考えが元に戻ってきてしまうが。
歌舞伎という芸術が、そもそも血筋とは何の関係もないのだという、その根本的な部分のまやかしが喜久雄の人間国宝によって描かれているじゃないか、という論も成り立つのかも知れないが、だとしたらなぜ血筋がこれだけ物を言う世界なのかという説明がない。結局なんだかはっきりしないうちに感動させられるという感じなのだった。
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