[コメント] 愛怨峡(1937/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
他のコメンテータの方も言及されているが、この作品を観た時、私も成瀬巳喜男を想い起こさずにはいられなかった。 もっとも、それは男が女の幸せを思って演技をするあのシーンから結末に至るまでの過程を観てのことである。 不測のネタバレになるだろうことを予想して作品名とその内容について詳しく述べるのは控えておくが、このほぼ同時期に封切られた両作品において、溝口と成瀬は結末の点で好対照をみせている。 この好対照を受けて、どちらの結末がより勝っているのか、とつい優劣を決してみたくなるが、両者それぞれに理由ある結末だったと私は考えているし、反面、成瀬の作品では物足りなく感じもしたし、溝口の作品では綺麗にまとまりすぎている感じもした。そんなことを考えていると、優劣を決してみようとすること自体が間違いだと思えてくるし、両作品が傑作であるがゆえにまた優劣を決してみたくなることに気付く。
この作品を傑作にしている重要な点として忘れてはならないのが、山路ふみ子の、話の前半と後半とで別人とも思わせるような人格の使い分けである。特にその点がもっとも明らかな形で示されるのが、息子が高熱を出して寝込むその横で行われる清水将夫とのやりとりだろう。そこには息子を父の名前に由来する謙の一字を付した名で呼ぶよう懇願した新妻の姿は無い。男にとっても、またこれをする女にとっても、傷口に塩を塗りこむようなこのやり取りは、非常に残酷である。
水谷による舞台装置は素晴らしく、また、なにより至る所で立ち上る湯気や煙が美しい。
ただ、テンポの良い現代漫才を知る者は劇中の漫才では笑えないだろう。
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