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[コメント] 縮図(1953/日)

映像にすると嘘になる文章、文章にすると嘘になる映像という境界は確かにある。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「ある買笑婦の話」から始まる徳田秋声の自然主義。漱石から「フィロソフィーがない」と云われた絶望的リアリズムは、ミゾグチ、ナルセの寄って立つ世界だった。悲惨な現場の具体的な描写は、新藤を飛ばして東映ヤクザ映画やポルノ映画に継承された。新藤は間の世代にいて、これを相対化しているように見える。

菅井一郎山田五十鈴らは意地悪く演じても背景にユーモアが見える。これらは名優たちの目算違いでは決してなく、悲惨なリアリズムにおいてこそ庶民の活力を描きたいという新藤演出の理念によるものに違いない。『竹山ひとり旅』の林隆三も『ふくろう』の大竹しのぶも、そのような人物たちであった。徳田秋声の残酷世界においても、人間とは逞しいものかも知れないと思わせる力が新藤にはある。中年になった山田五十鈴を登場させることからも、本作はミゾグチ、ナルセに対する後発世代の批評に見える。悲惨ばかりが極まる世界はリアルだろうか、と。

例えばアメリカの黒人奴隷だって誇りを持って生きていた人も多いのは映画ファンなら知っていることであり、彼等はそれっておかしいんじゃないですかと人から云われても何がおかしいのか判らなかっただろう。乙羽信子は芸者は私だけでいい、妹は芸者にさせないとは云うが、芸者という制度はおかしい、と云う術は知らない。歴史の視点から見なさいと指示する冒頭の字幕は確かに作品世界から宙に浮いているが、それは批評やフィロソフィーとそもそもそのようなものだからではないだろうか。映像にすると嘘になる文章、あるいは文章にすると嘘になる映像という境界は確かにある。逆に云えば、楽し気に気晴らしなどしている私たちの職場も、徳田世界なのかも知れない。

本作への諸兄のコメントを読んでこんなことをつらつら考えた次第。この作品をいま公開すべきはフィリピンだ。綺麗なベベ着て貧民窟の土間で麦飯喰らう乙羽信子や、娘に結局何もしてやれないで靴底叩くばかりの宇野重吉、負の歴史を堂々映画に記録するスタンスこそ日本の誇るべき文化である。絶倫校長には本作の比島巡回興行を命じたい。

貧乏だったろうに近代映協、パンフォーカスまでやってのける。天井を映すキャメラがいい。額縁に映る光景を捉え続けるキャメラは、それこそ戦前のミゾグチを継承している。乙羽の実家で天井から鈴なりにぶら下がっているのは何だったのだろう。肺炎の床で白目を剥く乙羽はリアル、死にかけた人はあのような表情をするものだ。

(評価:★4)

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