[コメント] 友だちの恋人(1987/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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今回の格言――「友達の友達は友達」。
『緑の光線』同様、色彩感覚が素晴らしい。特に、背景と衣装の絶妙の色彩バランスには、全ての場面で感心させられる。フェビアンの初登場シーンでは、レアと彼の服がちょうど背景の色と同系色。ブランシュは暖色系で区別され、まだこの恋人二人が結びついている事を視覚的に示しつつ、会話は、レアが、彼のせいでブランシュをほったらかしにしてしまった事を詰るという対立関係。
このように、単に感覚的に目を楽しませるだけの色彩配分ではなく、ロメール独自の作劇術の一翼を担っている点に注目しなければならない。背景に馴染んでいるのみならず、その場面ごとの登場人物の心境が、衣装の種類、色、デザインによく反映されている印象がある。
原題の「L'ami De Mon Amie」では、共に「友達」を意味する言葉が「ami(男性名詞)」「amie(女性名詞)」と男女に分かれているのが鍵になる。冒頭の格言も、男女が交錯する事で複雑な様相を呈する訳だ。
ブランシュが、フェビアンとの間の友情を、愛情へと我知らずに推移させている事の決定的な瞬間は、二人が街で偶然二度顔を合わせるという出来事を経て、友達同士として初めてデートする場面の中の、台詞とカメラの動きに表れていた。フェビアンが、レアと自分は正反対だ、と言い、「同棲してるんでしょ」と訊かれてそれを否定する辺りで、それまで会話する二人を同時に捉えていたカメラは、フェビアンに寄っていく。そして、ブランシュとの切り返しショットによって会話のシーンが展開する。単に並んで話している状態から、一対一の関係が芽生えつつあるのが感じとれる。フェビアンが、レアには男がいる、と疑惑を漏らし、最後には再び二人が同時にショットに収まっていく。この辺の呼吸が見事。
このすぐ後の場面では、ブランシュが、フェビアンとアレクサンドルが話しながら歩いているのを見つけて後を追い、会話を交わす。ここで三人とも青系統の服を着ている。これは、三人の関係が、友人関係と恋愛関係の混在、という意味で同等の、中間地帯に置かれている事を暗示している筈。そしてこの会話中、ブランシュはアレクサンドルの誘いを断ってしまう。一人になって泣いて嘆く彼女だが、観客の僕らからすれば、既にフェビアンに心動かされているが故に自然とああした展開になったのではないかと感じさせられる。実際、この後、フェビアンとデートする場面では、彼女は明るい色の服を着て、開放された様子なのだ。
カメラワークといえば、「友達の友達」が沢山いるパーティの場面では、主要人物以外の誰にもカメラが寄らず、会話も描かれない。友達の友達は、必ずしも友達ではない訳だ。
最後の場面では、既に恋人同士になっているフェビアンを待つブランシュが、偶然(ロメール作品には、この見事な映画的偶然が何度訪れる事か)通りかかったレアに声をかけられる。レアは、友人関係から恋愛関係に密かに進んでいたアレクサンドルを伴っており、彼は草叢に身を隠す。ブランシュはレアが、再びフェビアンとよりを戻した事を告げに来たのだと勘違いして泣く。レアは、アレクサンドルの事を思って泣いているのだと思い込むが、次第に話が噛み合わなくなり、そしてお互い、相手の恋愛対象と秘密裏に関係を持っていた事を、図らずも告白し合う事になる。だが、相手の裏切りを批難するという事にはならず、却って巧い具合に恋の相手を入れ違いにしていた事の幸福を笑い合う形になる。ここで二人の男が会話に入ってきた時、最後の色彩演出の妙技を見せられる。ブランシュとアレクサンドル、レアとフェビアンが、それぞれ緑と青のペアルックになっているのだ。取り違えとすれ違いが結果的には、三角関係の幸福な収束をもたらすという結末。
ロメールは、『喜劇と格言劇』シリーズを通して、様々な男女の人間模様をシニカルに、だが最終的には優しく見つめる視線を感じさせてくれていたが、このシリーズ最終作ではそのシニカルさも、優しさと幸福感をより引き立たせる隠し味に使っている。
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