[コメント] 上海特急(1932/米)
冒頭、長めのオーバーラップを重ねながら駅の雑踏のなか汽車に乗り込む人物が次々に登場。さらに列車内の人物交感に時間が費やされ、やっと動き出した機関車は無秩序な中国人の群れを押し分けながらゆっくり進む。ここまでのミニ・スペクタクルに期待はいや増す。
ところが以降、これでもかとばかり映画的に作り込まれたマレーネ・ディートリヒの形式美は、その場にそぐわぬ“妖気のようなもの”を発散しはじめて、その浮世離れした“立ち居振る舞”がいささか鼻につき、昔の男(クライブ・ブルック)との浮ついたやりとりは、列車内のスパイ戦のサスペンスと解離することはなはだしい。
この形式的なディートリヒの“美しさ”は、当時の映画スタアに世間がに仮託した幻想なのは理解できるのですが、音楽を徹底的に排除(劇中の2回のレコード演奏をはさんで効果音すら入らなかったと思う)したリアリズム演出から、そうとう浮きまくってみえた。それは中国人娼婦をシビアに演じたアンナ・メイ・ウォンの地に足の着いた存在感が反面教師しとして実証している。さらに付け加えておけば、一転最終盤、エンドマークへと向かうシークエンスの、これでもかと襲いかかる思わせぶりな音楽の洪水には開いた口がふさがらなかった。
あと、本筋ではありませんが1930年代当時の、アメリカが内包していたドイツへの不信、フランスへの恩情、さらに随所に滲むアジア(黄色人種)への優越心や、中国の革命軍(共産軍)への嫌悪と国民軍への辟易さが感じられ、それはそれで興味深かったです。
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