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[コメント] ニッポン国 古屋敷村(1982/日)

明治生まれの婆さん爺さんの語りを愉しむ映画。内容も興味深いが、表現自体が面白い。俳優にここまでの模写ができるはずもなく、記録映画ならではの達成があるだろう。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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導入部はグラフや模型を使ってドライアイスまで流して、まさに鳥瞰的に村の地理風土を描く。当時らしい科学映画の手法なのだろう。400〜500mの高地の5年置きに見舞われるという冷害、シロミナミという寒風が分析される。このガスが村を覆う記録は規模が大きく本物の迫力があり、空籾だらけの稲を肥やしにすると切り倒して収穫しないショットは厳しいものがある。模型実験は防風林等の必要を発見している。また、田の土壌の断面を採取し、オレンジの層に鉄分が沈んで溜まっている、土壌に鉄分補給すれば田はまた100年持つという分析も披露されている。このように、この土地で生きてい行く方策を提案している。こういう科学的なアプローチは深山の村を描くにあたり違和感がある、というべきだろうか。そういう意見があるのを前提にしたうえで、映画は挑発的にそうするのだろう。戦前だって自給できていた訳ではないと爺さんが語るのが印象に残る。

続く花房わりさんという味な婆さんの登場が本作のクライマックスだった。炭焼きが嫌だった、12〜13貫目を担ぐんだと語る。山の奥の奥に彼女らの田がある。この山道、殆ど獣道をキャメラは家から田まで長回しで撮る。長い長い。村人はわりさんの「おわり街道」と呼んだと紹介される。彼女は冬は町で過ごす。玄関でスタッフを別れるとき、何の愛想もなくキャメラをいつまでもじーつとにらめっこをしている。明治の人を映画は撮ってはいけなかったのではないかと、ふと思われる。

後半トップは炭作り。全て花屋浩さんのひとり作業。雪山でチェーンソーで細い木を切り倒し、所定の大きさに揃えて斜面を滑らせて下ろして集める。ひとまとめにして曳く。トロッコのようなものはない。炭焼き小屋は2mほど掘られた土地に石で円形に釜が作られる。煙の色が澄んでくると完了、外に掻きだす。いい炭は鋼の音がすると叩いて見せる。無口なタイプ。新幹線工事に行ったことがある。「人に使われるのは嫌だ。人は誰かに使われるものだ。俺は炭窯に使われた方がいい」。1回で10俵、ひと冬で150俵。儲けは25〜30万円。

浩さんの家でお婆さんが長男次男の死亡告知書を広げる。「戦後10年ぐらいはまだ帰って来ると思っていた」。街道沿いの「千疋供養」の碑が紹介される。先祖に熊捕りの名人がいたが、子供が熊に祟られて親より先に死んだ。明治五年の話。名人は熊捕りを廃業し、自費で碑を建立した。この家では鉄砲を持っては絶対に駄目だと云い伝えられた。

分家は蚕で儲けた。明治28年から。明治40年前後が全盛で「金の値段と一緒と云われた」。春蚕で一年暮らせた、他の季節の収穫は儲けになった。蚕の屋敷が写される。この婆さんは冒頭に登場した人。この人も最高に味な佇まいである。普通の民家の造りで、二階で一面に桑の葉が敷かれ、湿気ないよう一階でストーブが炊かれる。この光景は懐かしい。農地改革で土地を取られたと婆さんはマッカーサーを恨んでいる。私は邦画でマッカーサーへの恨みを直接云う登場人物にたしか初めて出会った。老夫婦が桑を山と背負って山道を行く。木の折り畳みの器具から手作業で繭をひとつずつ千切って籠に入れる。

この分家から昭和7年に出征した熊蔵さんの話が面白い。満州で旗護士、とは列車が走る前に点検する係。中国の「匪賊」は線路の釘を抜いて列車を転覆させるからその見張り役だった。昭和8年熱河作戦に参加、命令で敵中に突進して旗立てる。帰国するも恩給がつくからと誘われて再出兵、シベリア抑留の憂き目に合う。23年帰国。たくさんの勲章が保管されている。

鈴木さんの喇叭話。喇叭が好きで消防団、青年学校、青年団と全部喇叭手、ブラスバンドはコルネット吹いた。昭和15年入隊、上官に靴についた馬の糞舐めさせられた思い出話。「農民だから何ともなかったけど」。ニューギニアでマラリアと脚気。パパイヤが生っていたが手に取れる範囲の果実は取り尽くされていた。戦後、喇叭を手に入れ、軍服コスプレで吹く。忘れないのが供養さ。軍についてカンカンに怒っている爺さんの断片もあった。「鉄砲の的になるために引っ張っていかれたんだ」。国債貰ったけど使わず紙屑になった婆さんが国債を見せる。「戦争負けたから貰えないと思っていた」。

これらとは別に、断片的な語りで記録された件がある。冒頭の婆さんは、この山間に嫁いだのは税制優遇があったからだと回想する。山中で400万年前の貝の化石が発掘されたと別の婆さんの不思議で堪らぬという口振りの回想がある。昭和のはじめに体験した飢饉、じゃが芋をおろして食った。電気が来たのは昭和元年。当時の婦人消防団は有名だった、男はみんな炭焼きに出るから消防は女の仕事だった。

昭和48年前後、列島改造。その頃から山で暮らすのが不便になったと回想される。現金が必要になったから(!)。それまでの生活が原始的なものに感じられ始めた。道路ができて村は良くなると思ったが反対だった。村が開けるのは悪いこともあった。電気もテレビもそうだ。最後は地元の詩人木村迪夫の詩が詠まれる。

グーグルアースで眺めれば、もう当地は廃村になっているのが確認できる。民家に人気はなく、多くはブルーシートに覆われている。一時は国際賞受賞で注目されたのだろう、村の入口に絵地図の看板があるが、放置された模様だ。こうなることは、映画であらかじめ予言されていたのだろう。映画はこの村の終焉の記録だったのだろうか。

(評価:★5)

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