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[コメント] 衝動殺人 息子よ(1979/日)

老いたりと言えども木下惠介は木下惠介であった。見ているものの共感に向かって訴求する通俗的な感傷の積み重ね。だが通俗を通俗として立派に貫き通せることだって、貴重な仕事であるはずだ。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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泣いた。冷静に考えるなら、ここまで露骨に演出しなければならないことはないのではないか、とは言えるかも知れないが、そこまで露骨に演出してでも訴求するべき主題なのだ、という意気込みはあったのかも知れない。

たとえば命を落とす息子の足に縋って泣く高峰秀子。そこに赤ん坊の足に口づけする映像を挿入するのは露骨過ぎかも知れないが、しかし自分にとってたとえばそこで謎なのは、何故そこで足なのか、ということだったりする。そこで足に縋りつかせる演出は確かに効果的なのだ。しかし何故効果的なのか。そこには明白な意味は見出せないのに、しかし演出的には正しいと思えるその選択がどうして出来るのか。それだけでも、やはりこれは木下惠介だ、という感じがしてしまうのだ。そこでそれを選択出来るセンスが、演出家のセンスなのだと思うから。

それは通俗的な感傷に訴求するものでしかないかも知れない。だが直球で受け手の共感に向かって訴求するその手法は、何とかして見ているものと共感の関係を構築しなければならなかったこの映画にあっては、懸命必死なものとも映る。あるいはその社会的意義を有する主題はさて置いたとしても、その率直な共感の訴求は、現在のように共感の基盤そのものを喪失している時代にあっては、貴重なものとも映る。

ウェットな日本的感傷は、木下惠介の昔からのモチーフだった。それは露骨に見ているものの共感に訴求する。衝動殺人という行為に象徴される、そんな共感を喪失した時代の空気に向かい合う時に、木下惠介が拠って立つべき処としたのは、それでも日本的感傷への共感だった。それは一見時代にそぐわない提示だったかも知れないが、しかし今見れば、却って一回りして、時代はそこに回帰していかざるを得ないのではないか、という気もする。少なくとも自分は、そのウェットな日本的感傷に共感するものである。

(評価:★3)

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