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[コメント] 砂の器(1974/日)

差別される者の心理と行動の1事例
ゲロッパ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「こんな人知らない」という千代吉の搾り出すような言葉。この「知らない」という言葉には差別される者の心理が表れている。もちろん千代吉は息子の秀夫のことを想うばかりに「知らない」と発したのであるが、その対象を、言葉を発した千代吉自身に置き換えてみると「知らない」は「知られたくない」と言い換えることができるだろう。自分が差別の対象であると認識している者がいて、しかもその差別が彼の属する社会でまかり通っているのだとすれば、彼の心理としては自分が差別の対象であることを「知られたくない」と思うのは、弱い、いや、普通の人間ならば、自分の身を守るためには自然なことではないだろうか。少なくともそう言ったからとて責められるようなことではないだろう。私などは千代吉に同情しながら泣いてしまった。しかし一方でこの心理は、自らをいわゆる「寝た子」へと向かわせてしまうという厳しい側面も併せ持っている。従って千代吉の「こんな人知らない」という言葉に対して、「こいつは俺の子だ」と思いっきり言ってもいいじゃないかと、鑑賞後の冷えた頭では思ったりもするのだが・・・。このデリケートな心理を加藤嘉が見事に演じている。

では、自分のことを「知られたくない」という心理をもつ者はそのためにどのような行動をとるのか。差別から逃避するのである。自分を差別する社会から千代吉は秀夫を連れて逃避した。しかし、いくら差別される者が逃避したとしても、一方の差別する側がその行動なり態度を差別と自覚していない社会の中では、どこに逃避しても差別は存在することとなる。そうなると差別される者は決して差別から逃れることができないのである。つまり逃避には終りがやってこない。そして終わりのない逃避は放浪へと変わっていくのだ。放浪には目的がない。人生に目的がなくなるのだ。映画を観る者のなんともやり場のない感情はここから沸き起こってくる。

そして息子の秀夫もまた逃避する。本浦秀夫から逃避して和賀英良となることによって。親が逃避をし、息子もまた逃避したのだ。差別のトラウマがもたらす逃避の連鎖。

知られたくないという心理と、逃避するという行動。この心理と行動によって差別という事実は社会の底に深く沈殿してゆく。沈殿した事実は人々の目と心に届かないものとなってしまう。2人の刑事は、地を這うような執念と偶然によってやっと事実に辿りつくのであるが、その偶然も実は突っ込みどころではなくて、そうでなければ見えてこない事実もあるということが語られているのだ。

もちろん、勇気を持って差別と闘ってきた人達がいることを私達は知っているのであるが、差別される者の心理と行動の1事例としてこの映画の持つ意味は重い。

尚、ハンセン病が素材とされていることは、いわれのない差別が国家によって引き起こされることへの警鐘であることは言うまでもない。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)荒馬大介[*] mimiうさぎ[*]

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