[コメント] 砂の器(1974/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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大好きな映画なんですが、実はしっかりコメントを書いたことがありませんでした。2003年以来の再鑑賞(CSでリマスター版を放送していた)を機に語りたいだけ語ります。年齢を経て観ると新たな発見もあるもんです。
「王道」「正統派」のイメージもあるかもしれませんが、実は結構「変化球」だと思うんですよね。
そもそも話運びが時間軸に沿っていません。冒頭だって、派手でキャッチーなシーンで観客の興味を惹く・・・わけではなく、地味な「空振り捜査」ですしね。実はよく観ると、殺人シーンも逮捕シーンもありません。もちろん、安い2時間ドラマにありがちな「犯人の告白(崖の上で)」みたいなものもありません。 むしろ観客は早々に犯人の目星がつくでしょう。ところが被害者の顔はなかなか出てこない。私の体感では(体感かよ)犯人は冒頭15分くらいで登場するけど、被害者は2時間くらい顔を出さない。そして怒濤のクライマックスは、思っていた以上に長い。50分以上ある。実に本編の3分の1以上かけて「謎解き」をする。
この映画が解き明かす「謎」は、誰が犯人か?ということではありません。犯人の動機、否、一人の男の人生を解き明かすのです。
ああ、そうか。わざわざ秋田の無駄足から始まる意味にいま気付いた。「結論から最も遠い場所」から始まる「一人の男の人生を遡る旅」だったんだ。つまりこの映画は、遠くから次第に核心へ近付いていく構成だったのです。恐るべし橋本忍。私は、秋田からの帰路の列車内で和賀英良を見かけるのを「偶然が過ぎる」と思っていたのですが、彼の人生を巡る「旅」の物語だと考えれば、構成として「必然」だったと言えます。
ミステリーは、刑事や探偵といった謎解きをする人物の視点で語られるのが通常です。観客は片平なぎさと一緒に情報を知り、船越英一郎と一緒に犯人にたどり着く。ところが出来の悪い2時間ドラマなんかはこの視点がブレるんですね。突然犯人視点の描写が始まったりしちゃう。それは誰が知り得た情報なんだよ。我々観客にどういう情報を与えて、どう思ってもらいたいんだよ。実はこの映画もそれをやるんです。突如、加藤剛と島田陽子の描写になってしまう。しかもおっぱいポロリサービス付き。
ですがこの映画、実は最初から刑事視点で描かれてはいないのです。「捜査は難航したウンヌン」「事態は思わぬ展開をウンヌン」テロップで進展します。つまり登場人物以外の第三者、いわゆる「神視点」の俯瞰で物語が語られているのです。だから、映画最後に再び「親子という宿命ウンヌン」テロップが出てきても「それは誰が言ってんの?」ということにはならない。むしろ加藤剛の描写を早々に入れることで、「この映画のテーマは、犯人探しじゃなくて人間ドラマですよ」と言っているのです。
そして上述した、映画全体の3分の1以上、約50分もの時間をかけた「謎解き」。3つのシーンが(BGMも兼ねながら)交錯し、一点に収束していく様は本当に見事。 日本のチャールトン・ヘストン丹波哲郎が捜査会議で大演説を繰り広げるじゃないですか、カンペ読んでるくせに。この丹波哲郎が語る「回想」が、加藤剛自身の「回想」となっていくんですよね。映画として、めちゃめちゃよく出来てる。しかも丹波哲郎が語りながら涙を零すんですよ!カンペ読んでるくせに。
原作は(未読です)クラシック音楽の作曲家・ピアノ演奏家ではなく、ヌーボーグループとかいう前衛音楽の作曲家・シンセサイザー奏者なのだそうです。つまり冨田勲。MJことみうらじゅんによれば、原作は「ヌーボー(新しい)と過去の対比」だが、映画は「クラシック音楽にしたことで普遍性を得た」と言っています。たしかに、普遍性を持たせたことで、「親子」「宿命」という普遍的なテーマが生きたように思います。
何度もドラマ化され、仲代達矢×田村正和版(77年)とか、渡辺謙×中居正広版(2004年)とか観てるんですが(調べたら2011年、2019年もドラマ化されてる)、時代設定とかだんだん無理が出てくるでしょうよ。「社会派ミステリー」と言われますが、社会派って時代とリンクしてるんです。松本清張は特にそう。戸籍の件とかどうしてんのさ? そして何と言っても、癩病(ハンセン病)の扱い。その後のドラマでは一切扱われず、「貧しかったから」「殺人犯だったから」「村八分にあったから」など、無理矢理「親子放浪の旅」の理由を創作しています。
違うんだよ。必要なのは放浪の理由じゃなくて「殺人の動機」。
この病気、外見が醜くなることなどからひどく差別・迫害されたのです。日本では1907年(明治40年)から隔離政策が行われ、1963年(昭和38年)に強制隔離の廃止が国際的に提唱されたにもかかわらず、この映画が製作された1974年(昭和49年)でも日本は改善されないまま、実に1996年(平成8年)まで患者を隔離し続けたそうです。さらに、患者が子孫を残さないように断種手術まで行われていたと言われます。遺伝するという誤解や偏見があったのでしょう。だからこの映画で、加藤剛が「子供は絶対ダメだ」と島田陽子に堕胎を強要するのは「婚約者がいるから」などというチンケな理由じゃないんです。婚約者の山口果林との結婚も望まないのは、自由を愛する芸術家で、本心は島田陽子が好きだからじゃないんです。「この世に生まれてきたことが宿命だ」という言葉の意味は、想像以上に重いのです。この言葉、山口果林は「希望」ととらえたようですが、加藤剛にとっては「宿命=呪縛」だったように思います。殺人の動機は、後のドラマ版の創作のように「過去を知られることを恐れた」からではなく、「今ここにある迫害の危機」を恐れたからです。そして(結果として)スーパー刑事・丹波哲郎は、一殺人事件の犯人ばかりでなく、差別や偏見を助長した隔離政策という「国家犯罪」をも告発したのです。
どうしても橋本忍(プラス山田洋次)の脚本や構成に注目しがちなんですが、川又昂の撮影もいいんですよね。今回リマスター版で鑑賞して改めて感じました。正直、野村芳太郎の特徴とも言えるビヨーンっていうズームがあまり好きでなかったんですが、CGも無く撮影機材も軽量化されていない時代に、これだけの撮影をしていたことに感動します。もしかすると、日本の四季を通して撮影した映画ってこれが初めてじゃないかな?今はもう故人ですが、知り合いの映画学の教授が海外に日本映画を紹介する際は必ずこの映画だったことを思い出しました。いまやっとその理由が分かった気がします。
(2022.01.15 CSにて再鑑賞)
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