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[コメント] 俺たちに明日はない(1967/米)

アメリカン・ニュー・シネマという奴は…(レビューはちょっとだけ恥を…)
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 後にアメリカン・ニュー・シネマと呼ばれるようになる一連の作品の先駆けとなった作品。実在した犯罪コンビのクライドとボニーによる旅行のロード・ムービーと言った感だが、その乾ききった殺人描写や、最後のあまりに有名な二人の死に様など、当時の映画界に多大なる影響を与えた作品だ。

 ところで、本作はこれだけ有名な割りに、観ていてあんまりのめり込める。と言う感じではなかった。そりゃ、色々エポックメイキング的な所は多いのだが、途中部分が多少だれている感じ。最初はそれをこの作品の構成の悪さと思っていた。最後の衝撃のシーンさえあれば途中はどうだって良い、と言う具合に割り切ってるのかな?とさえ思っていた。

 しかし、このレビューを書くに当たり、色々と考えてみると、ちょっと違っているように思えた。

 よく考えてみると、この作品で退屈さを感じた部分は、会話のシーンだったように思える。会話部分が決して洗練されておらず、何となく間の悪さを覚えた。

 それでは、何故そんな風になったのか。当時さほど有名な俳優が出てなかったためか?(ハックマンはこの作品で発掘された感があり、それまでは決して有名などではなかった)

 それで不意に気付いた。これは会話を極めて現実に近づけたせいなのではないか?

 元々映画は劇から多くの要素を取り入れている。会話は特にそれが顕著で、ウィットの利いた洗練された会話というのは、脚本家によって練り込まれ、推敲を重ねることで、様々な意味合いをその中に封じ込めることが出来る。それが劇の、そして映画のリアリティというものだ。

 対して、日常の会話というのは、決して技巧が凝らされているわけではない。当たり前だが、会話というのは瞬時に相手の言葉を自分の言葉で返さねばならないので、時にウィットの利いたものが出るにせよ、通常は端から聞いていて洗練された会話など、あり得ないことだ。あったとしたらわざとらしく聞こえてしまう。

 本作は敢えてその映画的なリアリティを廃すことで、むしろそう言う会話を演出しようとしたのではないか?具体的にはビーティとハックマンの邂逅シーンでの会話だが、お互いに何か言いたいことはあるはずなのに、会話はとぎれがちで、しかも不意に訪れる沈黙と(「天使の通り道」という奴)、その後でいきなり来る馬鹿笑い。何がおかしいのか分からないけど、とにかく笑ってしまう。そんなこと、日常でもよくあること(あるよね?)。

 会話を普通にする。それが実はこの作品を不思議な魅力に包まれたものとしたのかも知れない。そしてそれこそがいわゆるアメリカン・ニュー・シネマという流れだったのかも知れない。

 それとクライドが童貞を捨てるシーンもね。あれも現実味に…

…いいや、別に。身に覚えがあるわけじゃ…

あったりして…

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)sawa:38[*] ロボトミー[*] Myurakz kazby[*]

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