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[コメント] トゥルーマン・ショー(1998/米)

複数の視線のねじれが笑いを乾いたものにする。
ymtk

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ・・・なんか笑えなかった。いや,面白くないということではない。相変わらずジム・キャリーのゴム顔は面白いし,トゥルーマンに真実を知らせまいとして悪戦苦闘する人たちのあわてぶりも面白い。また,モニターの中のトゥルーマンを実はまるで父のような温かなまなざしで見守るプロデューサーのクリストフ(エド・ハリス)の表情もいい。

 しかし,なにか違和感が残った。その違和感とは,おそらくこういうことだと思う。つまり,この映画には大きく分けてトゥルーマンショーの主人公としてのトゥルーマン,ショーを作る人たち,そしてショーを見る人たちという,3つの視線が存在している。自分が思うに,この映画では,その3つの視線は決して交錯することがない。終わり近く,クリストフがトゥルーマンに話しかける場面でも,クリストフは声だけの存在であり,その目は見えない。また視聴者の目がトゥルーマンやクリストフに見えることは決してない。なんというか,3つの視線から描かれた物語が決して交錯せずに最後まで進行してる,そんな感じがしたのだ。もちろん,それが悪いというのでない。逆に,感動的に見える場面でも視線が交錯することがないということが重要なのだろうなと,自分は思った。

 また,もう少し自分の違和感について考えてみると,それは単に視線が「ねじれの位置」にあることからのみ生じているのではない。むしろ,4つ目の視線である映画館にいてトゥルーマンショーを見ている自分自身の視線もまた,他の3つの視線と全く何の関わりもなしに存在していることに,自分は違和感を覚えているのではないだろうか。要するに,この映画には映画を見る人がいるべき場所がないのである。そんな風に思った。

 それと最後に一つだけ補足。どうして日本はああいう描かれ方をするのだろうか。「コンタクト」の時も思ったのだが,他の場面では完璧とも言えるリサーチをして,リアルな映像を作り出すことに成功しているのに,どうして日本の場面はズレた作りになってしまうのだろうか。日本に関してはリサーチなどしないのであろうか。

(評価:★4)

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