[コメント] ニンゲン合格(1998/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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道端に積まれ放棄されている段ボール箱に衝突したことで洞口依子と出逢うということ。積み重ねられた廃棄物が崩れて冷蔵庫の下敷きにされた西島秀俊が、昏睡中の儚い夢から覚めていくようにして死んでいくこと。実際彼は、妹が「なんだかバカバカしかった」と語る、昏睡中の誕生日パーティについて、「俺、憶えてるわ」などと言い、妹に気持ち悪がられていた。渡米して歌手になるという、ここではないどこかを夢見る洞口と、廃棄物としての吉井家に廃棄物を置いていくことで更に廃墟化させる役所広司。
役所と共に去ろうとしていた西島だが、どこからともなく訪れた馬という無根拠な存在が、吉井家に留まろうと抵抗する。役所は「時間はたっぷりあるんだ」と余裕でいるが、そう思えた時間は、すぐに、儚く断ち切られる。西島は、廃棄物に埋もれて死んでいくのだ。「俺、存在した?」という彼の問いかけは、他者からの承認の場としての「家」に、たとえ一人になっても留まらざるを得なかった、14歳の少年の影のようなものとしての彼の宿命から発せられたのかもしれない。
西島に「釣堀始めません?」と促がされた哀川翔は、ポニー牧場に自分が居ることが「目障り」なのだろうと勝手に解釈して、「すぐ居なくなりますから」と言う。そうして、他者を気遣うようにして自分の存在を消去しようとする姿勢が却って他者を苛立たせる(哀川を捉えていたショットがスッと横移動した瞬間に、カメラの間近に現われる西島の、重い無表情)。父・菅田俊が海難事故に巻き込まれたニュースがテレビから吉井家の茶の間に飛び込んできた(それまでテレビは、西島が、自宅という空間から意識を飛ばすためにぼんやり眺めるような存在でしかなかった)とき、電話が鳴ったのに躊躇なく普通に出たのは、哀川だった。その際の「はい、吉井です」という言葉の空虚さ。
その後、テレビに父が無事な姿で現われるシーンでは、事故の様子を語る父の声は消され、ただその存在が眼前にあることの事実を、家族三人が見守る。一方、哀川は、西島の視線に気づいて、静かにその場を去る。「俺、存在した?」という言葉とは真逆の仕方で他者と対する哀川は、関係を関係でなくする存在としてそこに存在する、つまりは、まさに「目障り」な者に自らなっていたのだ。
それにしても、洞口の歌唱シーンのあの歌は、エンドロールでも再び流れるのだが、なんだか聞いていて苛々するような古臭さ。雇われ歌手として仕方なく歌っているのかもしれないが、この映画全体の未来の無さを象徴しているようでさえある。
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